でも眩暈と吐き気が止まらない。
「──ナギ」
シグの声。冷めているようでその実、常に一定の温度を保っている。その心地よい音色で、こんな風に名前を呼ばれることが増えた。彼は「大丈夫か」という漠然とした質問の代わりに、ただ名前を呼ぶ。そして往々にして自己判断で片付ける。
今回はナギが先手を打った。
「……ごめん。ちょっと気分が悪い、から今日はこのまま宿舎に戻ろうかな。シグ、悪いんだけどアカツキさんには上手く言っておいて」
シグはまた何かを言いかけていたが、少し考えて「わかった」とだけ口にした。
グラスハイムに戻るための汽車を待つ時間、数分。乗り込んでまた数分。汽車の中は水を打ったように静かだった。ナギには流れていく外の世界も静まりかえって見えた。いつかのように現実味の無い世界。立ったままそれを眺めた。早く、一刻も早く自室にたどり着きたかった。
駅でシグとユリィと別れて、何日かぶりに宿舎塔にある自分の部屋の扉を開ける。零番隊として行動し始めてからは、ほとんとアカツキ宅や市街の宿で寝泊りしていたから、そもそも一人きりになること自体が随分久しぶりに思えた。
もう立っている必要は無いと一瞬考えただけで、待っていたように膝が力を失う。扉を背にしたままナギはずるずると床に座り込んだ。室内が埃っぽい。たった数日あけただけで、この部屋は主を忘れたように冷たくナギを出迎えた。
何をしようという意志も気力も尽きている。ただ泥のように眠りたかった。しかしそれが叶わないことを彼女自身、理解している。断頭台にのぼるように、一歩一歩ベッドへ這って身をゆだねた。
鍵の無い扉があった。そしてその扉は、ほとんど自動で開け放たれた。中では繰り返し、映像が流れている。その古ぼけたフィルムはようやく再生されたことを歓喜するように、また、しまいこまれていたことを非難するように延々と同じシーンを繰り返していた。時折計ったようにノイズが紛れ込んだが、繰り返すうちにどうでも良くなった。
ナギは黙ってそれを観た。無感動に観続けた。大音量で流れているのは父の最期の言葉だった。
何があっても扉を開けるな、と彼は叫んだ。そう言って、彼はカタコンベの扉を閉め、厳重に鍵をかけどこかへ去った。■■は、ただ恐ろしかった。穏やかな父が、人が変わったように怒鳴り散らして自分たちを閉じ込めたことも恐ろしかったが、このまま二度と父とは会えないのではないかという予感が、何故か確かなものとして広がっていくのが怖かった。
ただ、一人でなかったことは救いだった。震える手を握ってくれる、凍えるからだを抱きしめてくれる、大丈夫よと囁いて微笑んでくれる──隣には母がいた。恐ろしい地下のカタコンベは、それだけで温かなリビングと同じに見える。大丈夫。だいじょうぶ。ダイジョウブ。何があってもおかあさんがいる。だからきっと、だいじょうぶ。
その「恐ろしいこと」は、カタコンベの上で起こったようだった。父の判断は、正しかったのだ。何があってもこの扉は開けない、開けるものか。誓いを立てて母の体を抱きしめた。
そうして随分と経った頃、母はまとわり付く■■を振り払って一歩一歩、後ずさって距離をとった。とったところで意味などないのだ。ただ暗闇の中でも、お互いの姿が確認できるようになっただけだ。
「おかあ……さん」
■■の口から無意味な単語が零れ落ちた。──ナギもその台詞をなぞることにした。
「おかあさん」
そう呼べば、少し間延びした返事がキッチンの方から聞こえてくるはずだ。いつもそうだったから。特に用なんかなくても、その単語を口にすれば母は笑顔でかけつけてくれた。そのはずが、呼べば呼ぶほど遠ざかっていく。わけのわからない奇妙な音と、聞いたこともない低い唸り声に■■の声はかき消されてしまった。
■■は──ナギは──つまり、私は──全てをその眼で見ていた。骨がひしゃげる音を聞き、肉が破れる様を見て、人が化け物に変貌する一部始終を、瞬きもせず馬鹿みたいに見つめていた。化け物は地下で咆哮をあげた。その咆哮と同じ種類の地響きが、カタコンベの外で轟いていた。
夢だと思った。それほどに現実味が無かった。想像力が追いつかない。目の前にある光景も、地上に広がる光景も、昨日の続きとは思えない。□□と秘密基地で待ち合わせて、お父さんに見つかって叱られて、その後でお母さんがパイを焼いてくれた。みんなでそれを分けた。おいしいねって笑って食べたの。今日は昨日の続きなのだから、これが今日であるはずがない。今日が終われば明日がくるのだから、この夢が覚めたらいつもどおり□□と秘密基地に行かなくちゃ。だから早く醒めて。早く醒めて。早く醒めて。でないと壊れてしまう。こんな夢、夢でも耐えられない。早く醒めて。□□がいつもの場所で待ってるから。
かくして望みどおり、その夢は霧散した。決して開けるなといわれた扉の向こうから、傷だらけの男たちがなだれ込んできて、その「夢みたいな今日」をめちゃくちゃに破壊してくれた。化け物はすぐさま死骸になった。無抵抗のまま何度も撃たれて、爆ぜた。
■■は──マリナは、自分の目の前に差し出された大きな手を、無我夢中で掴んだ。生きているとか、どうしてニーベルングがとか、撤退しようとか、聞いたことの無い言語が飛び交っていた。何かを聞かれた気がしたが、自分の知っている言語では通じないと思った。知らない温かな腕に抱きかかえられて、マリナはようやく知ることができた。
今日は終わってしまったのだと。だから明日は二度と来ないのだと。
「おい……どういう組み合わせだ」
軽快なドアベルの音と共に入ってきたシグとユリィを目にして、アカツキは開口一番純粋な感想を口にした。
「それ夕方ナギさんにも言われたわ。私とエヴァンス曹長が一緒にいてはいけない理由でも?」
「そうじゃないが、ナギは? どうした」
いつもの「お腹空いた」宣言が無いと調子が狂うとでも言わんばかりに、アカツキは肩を竦めてみせた。ナギが真ん中に立っていれば、この組み合わせも多少は違和感も中和されるというか緩衝材の役割を果たしてくれるのだが。
「今日は帰りました。気分が悪いって」
事も無げに言って、シグはいつもの席──カウンターの端、壁際の椅子をひく。
「帰りましたって、お前な……付き添わないのか。そうじゃなくても、せめてちゃんと送ってきたんだろうな」
「駅で別れましたよ」
「シグ……」
「一人にないたい人間に無理やり付き添ってどうするんです?」
「その意見は一理あると思うけどその前にあなた、『アカツキには上手く言っておいて』って言われてなかった?」
「あ」
ユリィの追い討ちも相まって、アカツキには事実そのものが綺麗に伝わってしまった。シグは一瞬しまったというような顔を見せたが、すぐにまぁいいかの表情に切り替わる。アカツキが無造作に出したハムとオリーブを同時につまんで、小腹を満たし始めた。
「明日には迎えにいきますよ。ついでに、明日から暫くはグラスハイムを離れます。第三防衛ラインのぎりぎりでサギを迎撃することにしたんで。その間何かあったら、ユリィ隊長が何とかしてくれると思います」
「ちびが?」
無言で頷くシグの隣で、無言かつ無反応のユリィ。
「三番隊隊長殿が張り込んでくれるなら、まぁ安心だろうな」
「別にアカツキのところを限定して警護するわけじゃない」
間髪入れず返ってきた皮肉に、アカツキは片眉を上げて笑いをこらえている。
「シグとナギは、中央区から出るわけじゃないんだな?」
「と、思いますけど」
「だったら頻繁じゃなくていいから、たまには顔出しに来い。うちにも一人、お前らの熱狂的ファンがいるからな」
アカツキがちらりと見やった先、奥の自宅用キッチンで皿洗いに勤しむカリンの姿がある。シグはその後姿を見て、自然と笑みをこぼしていた。
「了解」
窓の外に視線を移す。今宵も変わらず、月と星が互いに牽制しあう空。今日が終わり、明日がくるその予兆としての夜。
シグはカウンターから窓越しに見えるその空を、いつもと同じようにただ眺めた。いつもと同じように微塵も美しいと思わない夜の輝きを、ただ黙って見つめ続けた。