起きてニーベルングを狩る。食事を摂ったらまたニーベルングを狩って、負傷したら治療して、負傷した後戻らずじまいの仲間の分も多めに働いて、日が暮れたら基地に帰る。その道すがらやはりニーベルングを狩る。そして泥のように眠って、また朝を迎える。
シグの生活と思考は完全にルーチン化していて、良いものであろうが悪いものであろうが、そこに入り込む余地は一切ないはずだった。しかし悪夢は、はじめからそこにあったかのようにシグの日常にすんなり溶け込んでしまった。眠れない日が続き、気力と体力は徐々に、しかし確実に削られていった。それでも保ってきた魔ガンの命中精度が落ちたとき、ようやく彼は自身に起きている問題が思ったよりも深刻な状況にあることを意識した。
このルーチンが悪循環を起こしていることくらいは、シグ自身分かっている。ふさわしい対処をすべきだという意識も無くはない。ただ、こういうときの意識とやらは、決断と実行への推進力を持たないのも世の常だ。何とかしなければと思いながら実質何も対処しないまま、シグはルーチンをこなし続けていた。
「よぉぉぉし! いいぞお! 今日狩るっ、絶対に狩れる! 中部第一が一番隊、我が隊がぁ! 特討指定アルバトロス級・クイナ! ここでその首吹き飛ばして殊勲賞だっ!」
ギンヌンガ峡谷の玄関口──そそり立つ岩壁と、底なしの谷。あるはずの景色は今、すべて分厚いニブルの霧で覆われて秘匿されている。現実感を奪う、塗りつぶされた毒の視界。
その端でシグの所属する部隊の隊長が咆哮を上げている。それは随分と珍しい光景であった。中部第一支部の一番隊を統べる部隊長は、比較的冷静で感情的に指示を出すタイプではない。ましてや、放っておいても毎期該当する賞などにこだわりなど持っていないはずだ。その彼が、姿を視認しづらい隊員たちに向けて、わざわざ圧倒的に分かりやすい鼓舞をする理由は、霞んだ視界の中央で揺れる巨大な影にあった。
アルバトロス級ニーベルング・クイナ──この半年の中部第一支部の殉職者の三割は、この一体と対峙して散っていった者たちである。岩壁そのもののような独特な皮膚装甲を持つクイナの擬態の精度は、その巨躯に反して一級品である。そして都合の悪いことに、その高い擬態能力は主にこちらへの奇襲と迎撃に用いられた。戦闘能力に長け、好戦的で、かつ常に溢れんばかりの殺意を以てグングニル隊員を屠る、まるでお手本のような「人類の敵」がこのクイナと呼ばれるニーベルングの特質である。
「照明、もう少し前衛に出ろ! 日和るな! 潰されるのはどうせ前衛だろうが!」
そのとおりではあるのだが、身も蓋もない言い草にはシグも辟易してしまう。これでは鼓舞どころか脅迫だ。目の前で実際に仲間が潰される光景を、名指しされた前衛部隊は脳内で再現できてしまう。それだから踏み出すべき一歩で、二の足を踏む。
しかしこの下策に見えた部隊長の指示は、思いの外功を奏すことになった。クイナと距離を詰めすぎていた一部の前衛は一度冷静に身を引き、野営用の大型照明を担いだ支援部隊は雄々しく猛りながら、しっかりととクイナを照射する位置まで上がってきた。このスポットライトが、今回の作戦の要である。
クイナの顎下には、反射鏡のような不可思議な部位がある。狙いを定めて意図的にそこを照らしてやれば赤や黄色の反射光を放ち、擬態を見破ることができた。多量のニブルの霧に視界を遮断された今の状況下でも、この一手は実に有効に機能した。この細やかな対峙法こそが、散っていった者たちがその命と引き換えに得たものである。
霧の中で滲む頼りない誘導灯は、それでもシグを確実にクイナの懐へ導いてくれた。
──討てると思った。クイナの顎下は明らかに皮膚装工が薄い。シグは自分の力量を過小評価も過大評価もしない。今の状況と自分の持てる能力で、このまま討てると確信した。「スイッチ」を入れる。そこからは体が勝手に動いてくれる。寸分の狂いもなく、狙った場所にひたすら連射した。魔ガンの爆撃音に混ざって、この場にはいかにも不相応なガラスの砕け散る音が耳元を何度もかすめる。自らが作り出した砂煙のせいで晴れないままの視界にも、色とりどりのガラス片が舞っては煌めいた。
(なんだ、これ──)
剥き出しの頬に、熱風と砕け散ったガラス片──それはやはり間違いなくガラス片だった──が容赦なく叩きつけられる。幻想的で、非現実的で、目がくらむ。そのせいか足元がおぼつかず、身体が傾いた。
同時にほんの一瞬、意識が暗転した感覚があった。それはシグにとって恐怖にも似た壮大な違和感だった。
眩暈を起こしたのだと、理解するまでに数秒を要した。
(……冗談だろ)
自嘲する猶予はない。次の数秒は正しい判断を下し正しい行動をとらなければ、たぶん命に関わる。そう思って何とか踏みとどまった。が、歯並び最悪のニーベルングの顔面を視界いっぱいに認めたとき、シグは死の恐怖とは異なる類の、冷えた感情に支配されて息を呑んだ。そして今度こそ口に出して呟いていた。
「冗談だろ」
シグの神経や細胞は、もはや身体の指令系統を無視して個別に判断し、行動しているようだった。右手はローグの引き金を引いていて、一瞥もせず地面を撃ちぬいている。轟く歓声と悲鳴をかき消すような爆音で、脆い足場はすぐさま崩壊した。峡谷の底へ真っ逆さまに墜ちていくクイナの姿に、シグは目を奪われて微動だにできずにいた。
「エヴァンス曹長っ!」
呼ばれて、間一髪のところで仲間に引きあげられて、自分がそういう名前のそういう階級の人物だったとかろうじて認識しなおすことができた。
周囲は歓声に満ちていた。未だ崩れゆく足場から、それでも身を乗り出して峡谷の底を覗き込む隊員たち。シグはその後ろ姿を座り込んだままの体勢で呆然と眺めていた。
「エヴァンス、よくやった! 見ろよ。……笑わせるじゃないか。何が、“クイナ”だ。せいぜい“モズの早贄”がお似合いだよ。こうやって死ぬまで醜態をさらしてくれるってんだから、散っていった隊員たちへの手向けとしては申し分ない」
部隊長が引きつった笑いを浮かべている。瞳の奥に涙が滲んでいた。安堵と達成感、故人を偲び、真っすぐな憎悪をニーベルングに向けることのできる、正しい感情の持ち主である部隊長。彼が求めてくる同意に、シグは頷くことができなかった。グングニル隊員の多くが、いや全世界の大多数が持つであろう清廉潔白な憎悪に、シグは誤魔化すことのできないほどの違和感を覚えてしまっている。
ふらつきながら、自分が仕出かしてしまった失態を確認するため谷底を覗き込んだ。
クイナはまだそこに居た。針のように鋭敏な岩に胴体を縦に貫かれてなお、首をもたげてこちらの様子を窺っていた。体内にニブルが蓄積されている限り、死ぬことはないだろう。身動きができないまま「餓死」を待つほかない。それはシグが意図せず作り出した、見せしめとなぶり殺しのための完璧な処刑台だった。
シグの隣に誰かが立った。彼は無造作に谷底に向けて魔ガンを放った。それが処刑台のクイナの翼に着弾して爆ぜたのを見届けると、彼は乾いた笑い声をあげ、それから奥歯をかみしめた。数人が後に続いた。シグは彼らの背中を黙って見ていた。
それから一週間。ギンヌンガ峡谷の玄関口へは当番制で巡回が入っている。峡谷の地形が魔ガンの砲撃に耐えられない強度であることは周知の事実であり、餓死させるという安全策がとれる今、リスクを冒して谷底へ下ってまで討伐する意味はない。グングニル本部でもそういう見解がなされた。
クイナが絶命したという報告はまだ上がってこない。耳に入るのは、誰それが何発魔ガンを撃っただとか、どこに当ててどの程度汚い悲鳴をあげさせただとかの「他愛無い」情報ばかりだ。
シグは一週間、どうにかして速やかにクイナを討伐する方法がないか模索した。全く信頼性のない岩場に命を預ける一世一代の賭けに出て、ウインチを使い谷を降りることができればあるいは──。その短絡的思考が脳裡をよぎるたびに間髪入れずにかぶりを振る。
溜息がひとりでに漏れた。信頼できるものが少なすぎる。最も信頼を置いてきたはずの自分の力量でさえも、今はどこか疑わしい。