extra edition#10 吊られた男のクロッキー【Ⅱ】



 そういう苛立ちを抱えたまま、シグは魔ガンの整備のためにグングニル本部へ出向いていた。整備部で顔なじみの隊員に調整内容を告げて、魔ガンを預けた。この後の時間を、シグはいつも持て余してしまう。手元に魔ガンがないから射撃訓練もどこか空しいし、サロンや食堂に出向いてわざわざ人混みを堪能しようとも思わない。だから大抵は市街に出て、ぼんやり散策をして時間をつぶす。
 今日もそのつもりで整備部から本部塔へ続く渡り廊下を、特に感慨もなく突っ切っていた。早朝に小雨が降った。その名残の雨露を、中庭に生い茂る花が重たげに乗っけている。それが案外綺麗で、シグは何となくその場で足を止めた。
「シグ! ちょうど! 良かった! あ、ちょっとそこで待機してもらえるかい?」
 中庭を挟んだ、回廊のちょうど反対側からいきなり呼び止められて、シグは思わず立ちすくんだ。声の主は正しく回廊を辿るのが面倒くさいのか、雨露に濡れた中庭を最短距離で横切ってシグの元へ現れた。
「サクヤ少尉……。あ、もう中尉、でしたっけ」
 シグとしては、失言をすぐさま訂正したつもりだった。それが図らずも、より威力のある皮肉になってしまったことに当人は気づいていない。サクヤはばつが悪そうに苦笑いをこぼす。
「いや、実はまだ保留されててね。八番隊の正式な発足に合わせることになってるから、肩書と所属が変わるのは早くて一か月後になりそうだ」
「……なるほど」
 言われてみれば、その手の正式な辞令を耳にした覚えはない。が、シグが勘違いしたのもごく自然なことではあった。
 新年度のはじまりにアサト・ブラックウェルが二番隊隊長を退き、リュート・バークレイが新隊長に就任、同時に中尉に昇進した。ここまではグングニル隊員はおろか、全国に発表された一大ニュースであり、一般市民の知るところでもある。だから順当に考えれば、新設部隊の隊長に就任した「はず」のサクヤも、同じく中尉に昇進している「はず」だった。
「所属隊員の引継ぎ作業が残っているし、新体制が軌道に乗るまでは僕も微力ながら二番隊の助力を……っていうのは言えば言うほど言い訳がましい気がするなあ」
「いえ、そんなことは。……相変わらず忙しそう、ですね」
「それこそそうでもないさ。準備はあるけど僕ひとりで片付ける仕事でもないし、二番隊のルーチンがなくなった分、今だけはかなり自由に時間を使えてる」
 サクヤの口から思いがけず飛び出した「ルーチン」という言葉に、シグはいくらか身構えてしまった。シグが抱えているいくつかの問題の、根本的原因はそこにあるからだ。
(この人なら、あるいは……)
 その考えが、よぎらなかったわけではない。シグはあれから何度か、サクヤとのやりとりを意識的に反芻している。その作業が不思議と苦ではなかった。彼の話、その一見くだらない比喩や謎かけの中には、物事の本質にふれるための鍵が隠されている。そんなふうに感じていた。
 ただ、この思考も辿り着くたびにかぶりを振っている。サクヤに何かを頼んだり期待したりするのは、さすがに何をどうとってもお門違いだ。
「ところで君を呼び止めたのは一応理由があって……。この後少し時間はとれる? 連れていきたい場所があるんだ」
 サクヤは何故か一瞬辺りを窺って、気持ちだけ声を潜めた。
「ああ。そういえば以前、おすすめの場所がどうとかって。魔ガンの仕上がりまで時間があるので、別にかまいませんが」
「それは良かった。今から出れば時間的にもちょうどいいな」
 年季の入った懐中時計を確認して、サクヤは満足そうに頷いた。軽快に蓋を閉じると、そのままシグに追従するよう目くばせをし、二人は連れだってグラスハイム市街に繰り出した。


 目的地と思しき場所にサクヤは何の躊躇も説明もなく入っていくので、シグは大いに戸惑いながらも質問することもできず、ましてや拒否もできず、疑問符を大量に浮かべながら黙って後を追うしかなかった。
 グラスハイム教会の大聖堂、既に始まっていた午後のミサに二人はすべりこんだ。説教台では今まさに司教がアルバ教の教典を諳んじようというところであった。
 入口付近、聖堂後方の長椅子に腰を落ち着けるサクヤに倣って、シグも座る。座りながら自らの選択を胸中でなじっていた。まさかと言っては失礼かもしれないが、サクヤが信仰心に篤いタイプとは露ほども思っていなかった。言うまでもなく、シグ自身も露ほども興味がない。必定、
(あー……だるいことになったな……)
という感想に辿り着く。多少の罪悪感は覚えながら、シグはサクヤの横顔を盗み見た。満足そうだ。何か期待感すら持っているようにお見受けする。それを見てシグが抱くのは絶望感でしかない。次の瞬間には、どうやって頭の中の時間をつぶそうか考え始めていた。
 刹那、司教による教典の暗唱が始まった。その一句目で、シグは伏していた顔をおもむろにあげ、司教の方へ見入った。
 おかしいだろ──口をついて出そうになる言葉を懸命に呑み込む。司教の紡ぐ言葉は、その抑揚と速度は、人間のものとは思えないほど極度に遅かった。そして独特の間があった。歯が揃っていないのか舌足らずなのか、発音も不明瞭だ。喩えるならそう、瀕死の者の必死の遺言を聞いているかのような、とにかくそれは意味のある「言葉」としての役割を到底果たしていないように思えた。
 絶対におかしいと確信して、シグは今度は堂々とサクヤの方に向き直った。彼は瞼を閉じて、この言葉とも言いがたい貴い空気の振動に感じ入っている。寝ているのでなければかなり真剣だ。助けを求めることはできないし、どうやら抗議も受け付けてもらえそうにない。シグがこの場で選択できる行為はただひとつ、この呪文が終局を迎えるまで耐え忍ぶこと。
「おぉくを~……のぉぞまぁ~……ず、たぁだ……その……けっ……てぇい……とぉぉ」
(──『決定と調和に対する最良の貢献者でなければならない』ね!)
 教典の第一節、敬虔な信者であろうがなかろうが小さな子どもでも一言一句違わず諳んじることができる。シグでさえ、子どものころに覚えさせられたものを、何のひっかかりもなく暗唱できてしまう。司教が一節を「吟ずる」間に、おそらく50回は繰り返せるだろう。
「ちょぉぉう……わに、たぁい、すぅる……」
 無理だ! ──シグは両掌で顔面を覆って、そのまま前かがみに項垂れた。作り出した小さな暗闇の世界に逃げ込んで身を守るしかない。司教による教典の暗唱は、聖堂内の空気を揺らし、何にも妨げられずシグの鼓膜を揺らし、脳内に響き渡った。


「──シグ」
 どれくらい時間が経ったのか、耳元でサクヤの声が大きくこだました。シグはすぐに意識を取り戻し、眼前に広がる状況の把握に努めようと四散した意識をかき集めた。そう、まず意識を取り戻すという第一段階が必要だった。
 いつしかミサは閉会していて説教台に司教の姿はなく、参加者は配られたスープに口をつけながら静かに、微笑みながら談笑を交わしているところだった。
「どうだった?」
「どう……いや、どうというか」
「少しは眠れたかい?」
 答えに窮していると、予想だにしていなかった質問を重ねられた。シグは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。答えの代わりに深い溜息を返した。
「まさか、はじめからそういう意図で?」
「夢を見て眠れないって言ってただろう? 今日、君に会って、改善しているふうではなかったからね」
 だからこの試練としか言いようのないミサに連れてきた──? とんでもない神への冒涜だ。それを何食わぬ顔でやってのけ、あまつさえ配られているスープまでちゃっかり二人分受け取ってくるサクヤ。眠気覚ましとばかりにシグに手渡した。