ナギは少し恥ずかしそうに首をかしげた。
「彼、思ってたのと全然違うね」
「そう? そうかな。イメージダウン?」
「ああ、そうじゃなくて。思ってたのと全然違って、話しやすい。合わせようとしてくれてんのかなって思ったけど、別に無理してるわけでもなさそうだし」
「それは──良かった」
「入ってくれないかな、八番隊。……シグがいてくれたら、またいろんな可能性が生まれそうじゃない?」
「その意見には、僕も同意だ」
口にしたことで、サクヤは自分がそう考えていたことを自覚した。どこか及び腰だったのは、シグを勧誘することが古巣である二番隊への不義理に当たる気がしていたからだ。アサトは分かりやすくシグの獲得を促してきていたが、現隊長のリュートにとって、その動きは決して面白くはないはずだ。だから積極的には動いてこなかった。
それが今日、ここにきて考えが変わる。ナギが言うように、シグの存在はきっといろんな可能性を生んでくれるだろう。それも相互的に。
しばらく経って、心地よい空腹と疲労を抱えた連中がぞろぞろと火の周りに集まってきた。
「なんだ、やらしいな。密談か?」
「思ってた以上にシグは指南役に向いてるって話だよ」
「何の冗談ですか。勘弁してくださいよ」
サクヤがバルトの冷やかしを絶妙な角度で受け流した、結果、流れ弾はシグに命中。本人は心底げんなりした表情を晒しているが、暴言と実力行使でしごかれたはずの連中は、何故かサクヤの発言をやんわり肯定している。理解不能だ。
携帯食料と即席スープだけの簡単な食事は、そんな談笑にはじまり、昼間の行軍の反省と明日の大まかな動きの確認まで終始和やかな雰囲気を保った。夜の歩哨──とは名ばかりの火の番──の順番を決め、その日は早めに休息を摂ることにする。
天幕の中に詰め込まれた隊員たちから寝息が聞こえてくるまで、シグが覚悟したほどの時間はとられなかった。皆、しかるべき時に効率よく身体を休める方法を心得ている。それがままならず、方々から心配された挙句、完璧なお膳立てまでされている自分のほうがよほど情けない。
横たえていただけの身体を起こし、シグは静かに天幕の外に出た。雑木林は夜の色に包まれている。川の穏やかなせせらぎと主張の強い虫の音が、静寂をより一層静寂たらしめていた。
焚き火に照らし出された一画だけが、曖昧な輪郭で切り取られている。サクヤはその薄明りの中で本を読んでいるようだった。
「小説……ですか、それ」
ニーベルングやニブル関連の研究に片足を突っ込んでいる人だとどこかで聞いたことがあったから、サクヤが読んでいるのはてっきりその類のものだと思っていたが、目に入った背表紙でそうではないと気づく。聞いたことのあるタイトルだった。
サクヤはシグの気配には気づいていたようで、別段驚いた様子もなく顔をあげた。
「子どものころから続いてたシリーズでね。最近完結したらしいから、時間があるときに読み進めてるんだ。……さすがに野営のテントの中じゃ、熟睡しろっていうのも無理があるか」
「隣、いいですか」
「じゃあできるだけ眠くなる話をしよう」
そう言いつつ、直火で温めていたコーヒーをシグ用に注ぐ。言動が思い切り矛盾しているが、シグは有難くカップを受け取った。
特別な密談とやらをしようという意志はなかった。ここには壁はなく、耳をすませば聞こえる寝息の合唱、そのいくつかはどうにも胡散臭い。八番隊がシグに対して持っているのは、好奇心と警戒心で、それらは至極真っ当な感慨であるから、たとえ聞き耳を立てられていたとしても不快に感じはしないだろうが。
「どうだった? 今日一日、八番隊に同行してみて」
サクヤは本に視線を落としたまま、この場にふさわしい話題を用意した。これは確かに「本題」だ。焚き火の炎を哀愁たっぷりに見つめるしか暇つぶしが思い浮かばなかったシグにとって、またもや有難いパスだった。
「良い隊になると、思いますよ。みんな対応能力が高いし、単純に嫌な奴もいませんし。面倒そうなのはいますけど」
サクヤは声を抑えて笑う。
「あと、妙に……察しがいい? というか……。勘ぐられましたよ。俺とサクヤ隊長で何か企んでるんだろうって。ナギに至っては、なんでか不調を見破られるし」
「はは、そっか。でもそれで君を問い詰めたり、咎めたりはしなかったろう? ナギは……そういう、他人が見逃すようなちょっとした違和感にもよく気づく。僕もそれで、してやられたからね」
陥れられたわけではないから、その表現は適切ではないのかもしれない。そんな冗談めかしたサクヤの物言いに、シグの唖然とした表情は不相応だった。
「──話してあるんですか。隊のみんなに」
「話してあるよ。……いや、正確には話す前にばれるパターンが多いんだけど、隠すつもりは流石にない。八番隊には、僕が居てほしいと思った人に声をかけていってるわけだから、そこは誠意だろう?」
何を、という対象語を抜きにしても会話は成立した。
ここで自宅の寝室さながらに安心しきって寝息をたてている連中は、全員サクヤの事情を承知のうえで八番隊へ転属を決めたわけだ。それを「寄せ集め」とは言わない。隊にはじめから漂っていた妙な連帯感は、偏にサクヤという強力な磁石を中心にした磁場によるものだったのだ。
「居てほしいっていうのは……何か基準が?」
「あれ、八番隊に興味が出てきた?」
上辺の設定と会話が、いつのまにか本題になり替わろうとしていた。いたずらっぽく切り返すサクヤに、シグは至極真面目に応答する。
「興味……そうですね。あると思います。あなたが二番隊を脱退してつくろうとしている隊は、何を成すための隊なのか」
たぶん、高い確率でかわされるだろうと思いながら牽制球を投げておくことにした。ここに壁はない。そのうえ好奇心に飢えた獣が息を潜めて──実際は爆音の寝息といびきを奏でているが──常に獲物を監視している。だから返ってくる答えは、当たり障りのないその場しのぎの目的だ。シグはそれでかまわないと思っている。その当たり障りのない目的は、サクヤが持ついくつかの目的のうちのひとつであることには間違いないだろうから。
「何を成す、か。僕も含めて、みんなで回れ右するのが苦手なタイプが多いからなあ。隊として何を目指すというより、何でもできる自由度があるほうがいい。目指すものもそれぞれで構わないと思ってる。うん、それぞれにあったほうが、きっといい」
「じゃあ、……あなたは?」
命の限りが明確に設定されたニブル病患者であるサクヤ・スタンフォードは、何を目指してこの小隊を立ち上げるのか。自分にとって、世界にとって毒となるのか薬となるのか。シグにはそれを確認しておく必要があった。サクヤと対峙したときに常に纏わりついてくる、縋りつきたいような希望と言い知れない胸騒ぎの正体を知らなければならないと思った。
サクヤの周りの空気は、変わらず穏やかだった。その空気にそぐわないほど、彼ははっきりと会心の笑みを浮かべた。
「自分の目の前に伏せられたカードが配られたら、めくってみたいと思わない?」
シグは取り繕うことができず、きょとんとした表情をそのまま晒していた。真意を測れない。測れないから、脳内で配られた裏返しのカードを想像した。
「まあ……めくります、かね。配られたなら」
「だろう?」
いや、そうじゃない──。満足そうなサクヤとは対照的に、シグは眉間に力いっぱい皺を寄せて不服を顕にした。サクヤはそれを見てまた笑っている。本音をすり合わせる場ではないことくらい重々承知している。が、これは流石にあんまりではないだろうか。
サクヤの周りの空気は、やはり常に穏やかだった。そして得体のしれない「磁力」が働いていて、シグは自分が既にその有効範囲に踏み込んでいることを自覚せざるをえなかった。