extra edition#1 毒の蜜


 
 物音に敏感になっている。
 どんなに息を殺しても、扉や窓は無音では開かない。生き物が移動すれば大気は不規則に動<き、足音が鳴る。静寂を裂いて鼓膜をかすめる僅かな雑音に、必要以上に警戒する毎日が続いていた。
 今日は朝から雨。遠征先の救護テントの中にも静かな雨音が響いていた。
 彼女は傍目にはぼんやりと、それでいて外界の様子に細心の注意を払いながらテントの隅の机に頬杖をついている。
「前線なんて言ってもエリート部隊は掠り傷も負わないし、暇ですよね~」
後輩隊員の本音に苦笑を洩らしつつ、胸中では確かになどと同意を示してしまう。
「いいじゃない。二番隊ってやっぱり素敵。いい男多いし、お近づきになるチャンスってかんじ」
中堅隊員の危機感のない感想。こんなだから、五番隊は恋愛目当ての男漁り隊などと陰口をたたかれるのだ。まあでも、全否定できるほど自分も潔白ではない。いや、むしろ諸悪の根源は自分のような気もしている。
(職務中に恋愛話に花を咲かそうとは思わないけど……)
「そうですかあ? ちょっと私にはレベルが高すぎるっていうか、住んでる世界が違うっていうか……アンジェリカ先輩はどうですか?」
「は? 私?」
一線は引いておこうと二番隊の投薬記録に視線を落とした矢先だった。
「さあ……どうかしら。そういう目で見たことないから」
これは本当だ。顔よし、家柄よし、地位も名誉も欲しいままの温室育ちに個人的興味はない。実力なんてものはあってもなくてもどちらでも同じだ。そんなもの、恵まれた環境下で育まれなかった方がどうかしている。
「さ。おしゃべりはここまで。お待ちかねの治療対象がきたみたい」
 雨音に混ざって、ぬかるんだ地面を軽快に踏みしめる飛沫の音が鼓膜をかすめた。タイミングがいい。このたるんだ空気と暇を払拭してくれるなら負傷者は大歓迎だ。不謹慎とは思いながら胸中で笑みが漏れた。
「ごめん、今いいかな。誤って倒した梁の下敷きにしてしまった」
男はテントの入り口を開けるなり神妙な顔をのぞかせた。水も滴るとはよく言ったもので、二番隊員が余裕の無い表情で雨に打たれてやってきただけで、暇をもてあましまくっていた女性隊員たちがわきたった。無論、内心の話である。
 そういう緊張感の欠けた空気が伝わらないように、アンジェリカはすぐさま立ち上がってジャケットを着直した。
「行きます。負傷者は一名ですか?」
「え。いや、彼らなんだけど」
その男性隊員は、すぐさま小脇に抱えていた毛皮のようなものを、ずいと持ち上げた。毛皮のようなもの。いや、生きた毛皮。もう少し正確に言うなら、生きてはいるが瀕死の黒っぽい、何か獣、三体。
「彼ら、って」
「三名? かな。とにかくこのお父さんっぽいのが、身体はって思いっきり下敷きに……助けられるかな。僕も手伝う」
 ──狸だ、たぶん。外れていても大差ない。とにかく人間でない重傷者を、この男はまるで当然と言わんばかりに血相を変えて抱えてきた。
 たった数秒前まで私が私がと治療担当を争っていた女性陣は、どうしていいか分からず本能に従って思いきり目を逸らしている。
 なんてお粗末な状況、と意気消沈していても始まらない。アンジェリカは堪え切れなかった嘆息をこれみよがしについて、空っぽのベッドの上にもう一枚シーツを敷いた。
「サクヤさんは手伝わなくて結構ですから、身体を拭いて休んでいてください。風邪ひきます。その・・・・・・狸、ですか。はこっちでなんとかしてみますから」
「ありがとう、頼むよ」
そんな心底ほっとしたみたいな顔をされると、こちらは心底困ってしまう。人間ならまだしも、狸の外科手術などここで始めるわけにはいかない。
(内臓破裂してるなら……穴ほった方が早いな)
ゴム手袋とマスク、三角巾は念入りに。呼吸の荒い、一番大きな狸をとりあえず触診してみる。震えているのは三匹とも同じだったが、どうやら寒さと恐怖からくるものらしい。
 アンジェリカは暫く眉間にしわを寄せられるだけ寄せて、唸れるだけ唸っていたが、やがて骨折用の添え木を物色しはじめた。成人男性腕用──長い。指用──小さすぎる。
「……どこか折れてる?」
大人しくしておけと(遠回しに)言ったのに、サクヤはタオルをひっかけたままの首をさっそくつっこんでくる。
「肋骨が。痛がってるのはそのせいでしょうね、息するのもきついでしょうから。固定したいんですけどいまいちサイズが……」
帯に短し襷に長し。狸用の添え木なんか持ってきていないのだから仕方が無い。というかそもそもそんなものは無い。
「切って良ければ僕が作ろうか」
「……そうして頂けると助かりますけど。サクヤさん」
「ん?」
「……ついでだから後で、聞きたいことがあります」
「それはちょうど良かった。僕も君に話がある」
 サクヤは誰にでも分かるような爽やかな笑顔でそう切り返してきた。後方で我関せずを保っていた五番隊隊員たちの声なき悲鳴が聞こえるようだった。ああ頭が痛い。
 サクヤが即席で作った狸胴体用添え木をただ添えて、洗いたてふかふかのタオルを数枚と今朝の余りのぬるめの海鮮スープを少々与えて放置する。ベッドをまるまる一つ提供してあげたのだから至れり尽くせりであろう。
 治療(?)が終わると、アンジェリカは宣言通りサクヤを連れて五番隊の詰め所を出た。あの中で野次馬に囲まれて話す内容ではなかったからだ。配慮したのは自分にではなく、こちらのエリート二番隊員様にである。知ってか知らずか、サクヤは案内されるままにほいほいと治療用のテントの入り口をくぐる。中にはベッドが二台。ここも空である。
「……すみません。あまり推奨される場所ではないんですけど、人には聞かれない方がいいと思ったので」
「構わないよ。僕もその方が都合がいい」
一瞬だけ身構えた。そう言えばというか、今更だが彼の方がしたがっている話とやらに、こちらは全く心当たりがない。
(さっぱり覚えのないものを考えるだけ無駄なんだけど……)
警戒心は一応持っておいた方が無難かもしれない。アンジェリカは入り口前に立ったまま腰を下ろそうとはしなかった。
「それで? 話というのは」
先手はサクヤが切る。
「……二番隊の投薬記録を見ました。というか、あなたの」
「? うん。何か気になるところでも?」
 二番隊の変人サクヤ・スタンフォードの数々の逸話は耳にしてはいるが、いざ目の前にしてみるとこの男は物凄く、本当に、本物の馬鹿の類に入るんじゃないかと疑ってしまう。それともポーズなのだろうか。だとしたら一級品だ。
「とぼけるのはなしでお願いします。一年前は頻繁に投薬記録があるのに、ここのところは皆無。……ニブル病が完治するわけはないから、どこか別ルートで入手した違法の薬を使用してるとしか思えません」
「うーん……だって、そっちの方が効くから……」
「だって、って」
 空いた口がふさがらない。とぼけるのはなしでと言ったが、もう少し抵抗しても良かったのではないだろうか。悪戯が見つかった少年のように後頭部をかくサクヤ。理解不能である。彼はことの重大さが分かっているのかいないのか。