extra edition#1 毒の蜜


「目くじら立てるようなことでもないと思うけど」
「そうでしょうねっ。違法の抗ニブル薬はグングニル隊員であれば査問モノですけど、サクヤさんには大したことでもないようですしっ」
「そうだね。ばれなければ問題ないし、ばれても誤魔化す方法は結構いくらでも──」
「そうではなくて」
思わず語気が強まった。
「医療従事者の立場から言ってるんです。強い薬は確かに即効性があります。ただ、長い目で見れば大きな負担、はっきり言って別の毒です。……あなたが、そういうことを御存じない人
だとは思えないんですけど」
「買いかぶり──と言いたいところだけど、そうだね。そのこと自体は僕も分かってるつもりだよ」
「だったら何故」
「そもそも、長い目で見ればっていう前提が必要ないと言ったら?」
「──サクヤ少尉、そういうのは」
「やりたいことがある。そのために“今”万全であることが必要なんだ。代償を支払ってでも」
 なるほどやはり馬鹿者の類だ、女には理解しがたい。命を燃やして全速力で進むことにどれほどの価値があるのか、アンジェリカにはさっぱりと言っていいほど分からなかった。ただこういう男が人間的に、男性的に魅力的であることは知っている。アンジェリカ自身がどう思うかと言われると、それはまた別の話であるのだが。
「概ね、わかりました。同意したわけではなくて、何を言っても無駄そうという点においてですけど。……ただサクヤさん、定期的に健診は受けてください。指名してくれれば私が診ます」
「それは願ってもない申し出だけど」
「私の話は以上です。サクヤさんのお話を伺います」
「いや、僕がしたかった話は今ので充分だよ。やっぱり君じゃないとだめだってことが分かったから」
「はい?」
「アンジェリカは、今の五番隊の中では一番抗ニブルの知識に秀でてる人だし、前線に出ても的確な判断ができる人だ。魔ガンの扱いもうまい」
「あの……何の話でしょう」
「君に、僕が立ちあげる新しい遊撃隊に入ってほしい。衛生兵のスペシャリストとして」
 あまりの唐突さに言葉が出てこない。サクヤ少尉が指揮する遊撃隊、つまり彼が隊長。その、どう考えても規格外のダークフォース隊に自分は勧誘されている?
「その……あまりにも、予想外の、突然なお話なので……」
整理しようとすると眩暈がする、というのは黙っておいた。
「返事は焦らなくてもいいよ。あ、でもイエスしか受け取らないからそういう感じでひとつ」
勧誘? いや、なんだこの強制感は。脅迫に近い。待て待て、脅迫されるような弱みは自分にはないはずだ。
「はっきり言うと、乗り気にはなれません。私は今の隊で充分自分の能力を活かせると思っているし、今の……生活が気にいっています。それをわざわざ壊そうとは思わない」
「その生活が壊れたときに、僕ならたぶん君を守ってあげられると思う」
 唖然──今さらりと凄いことを言われた。凄いが、しかし中途半端だったようにも感じる。
「だから……壊す気はないと言ってるんですが」
眩暈がいよいよ本格的になってきた。ぐらつく視界の中で、サクヤは申し訳なさそうに苦笑いをこぼしている。不愉快だ、とんでもなく。
「何です、その訳知り顔」
「……甘い蜜は別の毒だ。そういうことを君が知らないとは思えないけど」
 刹那、頭に血が上ったのが自分で分かった。この男、どこからどう仕入れたのかは知らないが“知っている”。
「買いかぶりですよ、それこそ」
にっこりと微笑んで、治療テントを後にする。
 雨は未だに一定量、一定の冷たさで降ってくる。ニブルを含んだ毒の雨は、それでも周囲の僅かな光を反射して美しくきらめいた。蟻地獄みたいに、食虫植物みたいに、人が魅了され罠にはまるのを待っている。その毒に侵されるのをただ待って、静かに降り続いた。


「今回は苦戦してるな? あ、今回もか」
 一番広い二番隊の詰め所テントで、項垂れるサクヤの隣に腰かけるブロンドの好青年。
「リュート」
「アンジェリカ・ウォンって言ったら知る人ぞ知る上層部キラーだろ? ちょっと魂胆が見え見えすぎたんじゃない?」
「そういうつもりは……いや、なきにしもあらずなんだけど……」
 アンジェリカの持つ情報網は他の誰にも真似できない類のものだ。欲しくないと言ったら嘘になる。いや、身も蓋もなく言うならそれが目当てだ。ニブル以上の濃い霧がかかった、グングニルの上層部を見通す情報源、彼女はそのコネクションを多彩に持っている。
「それだけってわけじゃない」
「それ、男がする言い訳ランキングナンバーワンのやつ」
人をくったような笑いをかみ殺して、リュートは今宵の晩餐を楽しもうと少量のアルコールに口をつける。本日の討伐数は隊全体で五、そのうちリュートが討ったのは三体、上々である。
「……別働隊は確かに必要だし、サクヤには合ってると思うけど。こだわる必要はそこまでないんじゃないかと思うよ、俺は。お前の目指す遊撃隊で、下手すると彼女はガンになると思うけどな」
「そのガンは近々派手に弾け飛ぶ予定なんだよね……」
「……マジか」
だから困ってる、そしてチャンスでもある、とサクヤは付け加えた。
 グングニル内では群を抜く抗ニブルの知識と技量、前線でも活躍できる身体能力、そして彼女だけが持つ情報網──どれをとっても余人を以て代えがたい。
「それだけじゃないんだけど。……やっぱり、彼女は外せない」
 思い込みと言えば完全に思い込みの人選だ。先日、全機関に轟くほどの公開プロポーズで補佐官を引っこ抜いたときも、思えば直感みたいなものが決定打だった。極力論理的な思考を好む自分にしては珍しい判断基準だ。しかし、というかだからこそというか、妙に自分を信じられる。大丈夫だ、間違っていない。
「紳士的ではないけど……弱みに思いっきりつけこむのは可能か」
「頼むから独り言は一人のときに言ってくれよ」
リュートは噎せながら、何食わぬ顔で外道な発言をこぼす同僚を心配そうに見やる。そして同時に、こういう奴が指揮官になるといろんな意味で恐いなと身震いしてみせた。


 西部遠征から戻って、リオ少将の部屋に行ったのは一度きりだ。その一度で全ての清算を済ませるつもりだった。愛していると言われたから、当然のように私もと返した。挨拶代わりだ。君が欲しいと言われるから、じゃあ私も欲しいものがあると答える。このやりとりだけでグングニル機関の次の動きがだいたい分かる。情勢を動かす情報は、愛の言葉よりもその行為よりもずっと甘美だ。自分はおそらく、その毒の蜜の味に魅せられている。そうでないと説明がつかない。アンジェリカにとって、グングニルの実権を握ることは何の魅力もない結果に過ぎないのだから。
 注意深くいれば、その蜜は永遠に享受できるものだった。しかし前回、彼女は痛恨のミスを犯している。
 何か聞きたそうだと言われたから、取り繕わず直球で聞くことにした。何でもない風を装えばその方が逆にいいと考えた。
「この前渡した冷却ニブル。……何に使ったのか知りたいんだけど」
「それを君が知る必要はないと言ったはずだ。いずれ分かるだろうが、なに、君には一切関係のない場所の話だからね。それよりも──しばらく、そうだな一ヶ月ほどここへ来るのは控えなさい。念には念を入れておくべきだから」