extra edition#11 吊られた男のクロッキー【Ⅲ】



 古びた──しかしどこかとても懐かしい──大人数用の食卓の上に、そのカードは伏せたまま置かれていた。シグの対面に、カードを差し出した張本人が座っている。例の会心の笑みを浮かべたまま、シグが手を伸ばすのを待っているようだった。
「何ですかこれ」
 率直に疑問を口にした。警戒心はきちんと働いている。出されたものを何の躊躇もなく受け入れるほど、浅はかには動けない。
「僕にとっては、勝つために必要なカードだ。君には──どうだろう?」
 サクヤは既に、このカードの正体を知っているような口ぶりだ。シグは高い確率で、ジョーカーだと思った。めくってしまったら最後、ずっと場をかき乱し続けるに違いない。
 だったらこのままこうして、伏せておけばいい。それが力でも真実でも、根源でも到達点でも、誰の目にも触れないほうがいい類のものもある。しかし、何故だろう。シグはかぶりを振りながら手を伸ばしていた。
「目の前に伏せられたカードが配られたら」
 眼前で、耳元で、そして頭の中で誰かの声が響いていた。
「めくってみたいと思わない?」
 人はたぶん、そういうふうにできている。そうやって良いものも悪いものも、ある意味で平等に暴いてきたのだろう。衝動。好奇心。組み込まれたシステムが駆り立てるものに、体と心はいつも素直に従う。唯一抗うための脳が、今は休息しているのならまあ仕方がないというもので。
 テーブルの端にカードを引き寄せた。期待と不安が嵐のように吹き荒れて、その中で自分の心臓の音が強くはっきり響き渡っていた。


「シグ! おいシグ! 生きてるか!」
 ペチペチという小気味よい音と、それにそぐわない切羽詰まった低い声で目が覚めた。ぺちぺち音が自分の頬から発せられていることに気づいた途端、微妙な痛みがじわじわと広がった。割と至近距離にバルトの顔面がある。いい目覚めとは言い難かった。
「いいところだったのに……」
 開口一番、かすれた声でそう呟く。馬乗りのバルトのグローブみたいな手で顔面をはたかれていたこっちが現実で、意を決してカードをめくったあっちが夢。整理しながら欠伸を漏らした。
「そりゃあ悪かったと言いたいところだが、よくぞここまで熟睡できるもんだな。これからあれか? フライパンとかシンバルとか所持品にいれといたほうがいいか?」
「そういうのは、いい」
 バルトの重みで内臓が潰れそうだった。身をよじって這い出す。天幕の中に誰も残っていないことにはすぐに気が付いた。そういう視覚情報よりも、すぐ傍で聞こえた魔ガンのコッキング音だとか、断続的に響き渡る独特な鳴き声のほうが、シグの目を覚まさせるには効果的だった。
「ヨタカか。本当に出た」
「静かに出るぞ。隊長たちが音の方角を追ってる」
 今更のようにも思えたが、シグも文句を言わず黙って天幕の外に出た。
 ギャッギャッギャッ──
 薄っぺらい布でも、音はそれなりに遮断されるものだ。外に出た途端、ヨタカのものらしき鳴き声は周囲の樹木に反響して、はっきりと、どこまでも薄気味悪く響き渡っていた。
 ギャッギャッ……ギャッギャッギャッ──
「おはよう、寝起きはいいタイプみたいね?」
 アンジェリカが小声で振り返る。空はもう白んでいたから「おはよう」で正しいのだが、その爽やかな挨拶とは裏腹に、他の連中はそろって険しい顔つきで上空を見上げていた。
「本当にこれがニーベルングの鳴き声? 猿とかではなく?」
「僕もそう思って以前目視に行った。大丈夫、二度が二度とも立派なアルバトロス級ニーベルングだったよ」
「なるほど。昨日言ってた“予習”ですか」
 しばらくは、皆でこの個性的な鳴き声に耳をすませていた。近づいてくるわけでも、遠ざかるわけでもなく、一定の距離ずっと同じ方向から聞こえてくる。鑑賞するには、いささか不愉快な音だった。
「だいたいの位置は把握できたし、そろそろ威嚇射撃を始めようか。これであぶりだせればそのまま戦闘開始になる。みんな準備はいい?」
 短い返事が方々から上がると、サクヤは先陣を切ってジークフリートを構えた。早朝の弛緩した空気が、それだけで瞬間的に引き締まる。一呼吸だけおいて、古い時代の洒落た装飾の魔ガンは、轟音と共に火を噴いた。


 サクヤによる戦闘開始の一発が約二時間前。太陽はおそらく規則正しく、自らのルーチンをこなすべく高い空を目指しているはずだ。それは分厚い雲の壁の向こう側の話で、目視はできない。昨日とは打って変わって天気が悪すぎる。いつ雨が落ちてきてもおかしくない灰色の空が頭上に展開されていた。
 ヨタカは威嚇射撃直後から敗走をはじめ、こちらの思惑通りギンヌンガ峡谷に身を潜めた。峡谷に留まっていることは知れている。谷に反響した「ギャッギャッ」という鳴き声が、半永久的に聞こえているからだ。それもあって、八番隊は余裕を持って峡谷の上層を目指せている。
 乾ききった土を、一歩一歩踏みしめて進む。一歩一歩、確実に近づいていく。たいして暑くもないのに、シグの全身に汗が纏わりついていた。柄にもなく緊張していたと思う。
 そんなシグの胸中を知ってか知らずか、また意外な人物が場の空気を思い切り緩ませた。
「聞き流してくれていいんだけど、……俺、なんかあれ、しゃっくりに聞こえてきた」
 サブローが真面目に冗談を言うそばから、妙な間隔の「ギャッ」は響く。
「しゃっくり! すんの? しゃっくり。俺はずーっとなんか、文句言ってんのかと思ってたわ。『朝っぱらからなんでしつこく追いかけてくんだよ、だりぃな~』みたいな」
 サブローの真面目さに合わせて、リュカも真面目な顔を取り繕ってみる。本人たちは真面目に考察をしているつもりなのだからこの顔つきは正しい。ただ、見ている側からすればかなりのミスマッチだ。
「しゃっくりか、考えてもみなかったな。確かに身を潜めるべき今の状況でも、構わず発しているところをみると生理的な現象なのかもしれないね。おかげでこっちは助かっているけど」
 サクヤがミスマッチ祭りをより盛り上げてくれる。神妙な顔つきをした男たちは、それからげっぷだの嘔吐きだのといった説をひとしきり検証した後、やはり笑いもせず「わからないですね」などと真面目に呟いていた。
 場違いだったのかもしれない、本人たちは真剣だったのだから。そう思いはしたが、シグは地面を見たまま小さく笑いを吹き出してしまった。
「……ほらな? やっぱシグも『っざけんなよ、グングニルマジうざってぇ~』説に一票だよな?」
 リュカが追い打ちをかけてくるものだから、シグは否定できないまま声をあげて笑う羽目になった。
 もういい。それでいい。そうでないと気が変になりそうだった。“あいつら”はいつも“こちら”には絶対分からない意思伝達をしていて、そのくせタイミング良く“こちら”のイメージ通りの咆哮を上げたりもする。また翻弄されているのではないかと考えると、自分にも周囲にも嫌悪感が増すばかりだ。それを斜め上の方向から阻止してきた「ニーベルング、愚痴こぼし」説に、今回は感謝もこめて一票いれておくことにした。
「まあ、何にもしてないのに早朝からレベル5連発されたんじゃ、確かに『うざってぇ』とは思うだろうしな」
「だからそれは僕としても本意ではなくて……」