タオルを頭に載せて、ほぼ残っていない水滴を吹き飛ばすように何度か動かした。何でもないふうにそれだけ伝える。今は態度の保留を装っておく。そうしておかないと、人生の重要な分岐を風呂場で素っ裸で選択したことになってしまう。鏡越しに確認したサクヤは、ただ微笑をもらしているように見えた。
サクヤ隊長──。
シャワー室を出ていくサクヤを、やはり鏡越しに目で追った。
俺は、はあなたの信頼に値するような人間じゃない。自分のやりたいことを成そうとするなら、いつか絶対にあなたを、みんなを裏切ることになる──。
しかしその先に、求めた答えがちらついてもいた。シグはもうそこへ手を伸ばしている。差し出された裏返しのカードの端に、指をかけていた。
──それから一週間。八番隊が初陣で上げた戦果は、瞬く間に全グングニル機関に轟いた。正式発足前にも関わらず、ただ一人の犠牲もなくアルバトロス級ニーベルング「ヨタカ」を討伐。ギンヌンガ峡谷のニブル汚染を食い止めるため、さらにもう一体のアルバトロス級「クイナ」を緊急討伐──娯楽の少ないグングニル機関、その隊員間の話題に八番隊という名が上がらない日はないほどだった。
ただし、賞賛と羨望の声に混ざって一定数非難の声があがったことは言うに及ばない。クイナの追加討伐について上層部の理解はすんなり得られたが、やはりというか当然というか中部第一支部からは恨みを買うこととなった。表立って咎めることはできないから、“ポイント稼ぎに必死なハイエナ部隊”だの“二番隊のスペア隊”などといった揶揄が囁かれ、それらは当然サクヤの耳にも届いていた。そのあたりは想定内であったから、一部隊員から後ろ指さされることに特に感慨はない。その手の否定的感情は何をやってもやらなくても、どうせ一定数引き受けなければならない。
気がかりだったのは、中部第一支部に一人残してきたシグのことだったが、その憂いを一週間という短期間でどうにかできたのは僥倖だった。シグは今、本部の兵舎に自分の荷物──あり得ないほど少ない──を搬入している頃合いだろう。
「長く共に戦ってきた仲間からの裏切り者を見る視線に心身共に疲弊したので」とか何とかいう理由を引っ提げて、作戦終了三日後にシグは飄々と八番隊の執務室に現れた。シグの至って健康そうな顔色と清々しい表情、それらとは異動理由は完全に矛盾していたが、その字面の尤もらしさと説得力は異例の早さで上層部を動かした。そもそもからして、彼は長年にわたり本部への異動を打診されてきた身だ。その希望が二番隊で無かったことは惜しまれたが、疲弊しきった心身の療養のためならば仕方がない。この、実績だけはある、使いやすいのか使いにくいのかよく分からない小数部隊でしばらくは静養してもらうのがいいだろう。というのが上の見解だ。
それらが表面に見える部分の話。実際は少し、いや見方によっては百八十度違う。シグの行動は確かに中部の一定数からは疎まれたが、また別の一定数からは共感を得たからだ。クイナのなぶり殺しを良しとしない、八番隊の面々と同じような感慨を持った中部の隊員たちが、実際に作戦に参加した者の中にもそれなりにいた。またメンツをつぶされたはずの実働部隊の士官たちは、(ここはサクヤの予測通り)シグの行為自体を咎めたり恨んだりする人物ではなかった。中部第一支部でのシグの生活は、今まで通りが保障された状態だったのである。
それでもシグが今まで通りを捨ててここへ来た理由を、彼自身は八番隊にこう伝えている。
グラスハイムには、熟睡できる場所があるから。
本当の理由は誰も知らない。サクヤでさえも、もしかしたらシグ自身でさえも。それが明らかになるのは、もう少し先の話。それまでは、ずっとカードは伏せられたまま手の届くところに置かれているだけだ。月も星もない暗闇の底で、はじまりの引き金を引くそのときまで。