extra edition#11 吊られた男のクロッキー【Ⅲ】



 シグが引き揚げられている間に聞いていたのは、ナギのどうでもいい励ましと、リュカの憚りのない笑い声。風の音と水の音。それらは溶けて混ざり合って、やがて無音になった。逆さのまま落ち着きのなかった視界も、同時に暗転。その先は、完全な無だった。夢さえ見ることを許されない、深淵の無意識世界。シグの中では無かったことにされる時間だ。
 だから彼の目が覚めたとき、思い出す最後の光景は逆さまのギンヌンガ峡谷だということになる。頭の上を流れる川も、足元に広がる空も、それはそれで元から存在する世界だ。なのに誰の目にも映らない。皆が知りながらにして、知らない世界。そこにあるのに、ない世界。
 視界の下から瞼が降りてきた。次に目が覚めるときは、見慣れた光景であることを願って、シグは抗わず無意識に身をゆだねた。


 目が覚めたとき、真っ先に目に入った天井の染みに見覚えがあった。中部第一支部の医務室の、角のベッドに横たわったときに見える風景だ。意識があって、それでもベッドに身をゆだねなければならない状況になったとき、シグは迷わずここを選んで半ば強引に陣取ってきた。理由はもちろん「角だから」。それ以上語ったところで分からない者には分からないし、分かる者なら十分すぎる説明だ。
 そういう日ごろの積み重ねが功を奏したか、しっかり意識を失った今回も指定席のようにこのベッドに転がされたのは運が良かった。随分良質な睡眠がとれたらしい、やけに冴えた頭で物事を考えることができた。
「あ、起きた起きた。隊長ー。シグ起きましたよー」
 寝返りを打つと目と鼻の先にアンジェリカの顔があって、これには流石に目を剥いた。クリアだった頭の中が一瞬真っ白になる。そのまま眼球だけを動かすと、今度はサクヤとばっちり目があった。身体を起こそうとしてやんわり制され、それをさらに押し返して半身だけは何とか地面と垂直になるように努めた。
「寝ててかまわないんだけど……。今までの疲労と寝不足が一気にたたみかけてたみたいだから、数日起きないんじゃないかと思ってたよ」
「いえ、おかげさまでかなり休めました。数日……、え、俺、どれくらい寝てました?」
「正確には分からないけど、4,5時間ってところじゃないかしら。動けそうならシャワーくらいは浴びたほうがいいかも」
 それは確かにそうだ。意識は綺麗さっぱり晴れ渡っているが、身体のほうはニブルまみれ煤まみれのままだ。アンジェリカの有難い指摘に従って、まずは身を清めに行くとしよう。
「……できればそろそろ、隊長も行ってもらえると嬉しいのですが」
「ああ、そうだね。今を逃すとまたしばらく時間がとれなそうだ」
 どうやらサクヤも帰還後そのままの状態でいたらしい。他の連中が躍り出てこないところからして、皆身支度を整えているのだろう。図らずも、またサクヤと二人きりで会話をかわす機会に恵まれてしまったというわけだ。
 だから隣り合ったシャワールームで、シグのほうから話を振った。どう考えてもそうすべき立場だ。
「サクヤ隊長。本当に、ありがとうございました。報告には自分も向かうつもりでいたんですが──」
「ああ、君が寝てる間にあらかた済ませてきたよ。予想通り、君のほうは、しばらくは肩身の狭い思いをするかもしれない」
 水の勢いに負けないように、互いに少しだけ声を張る。幸いシャワー室に二人以外の隊員は
いなかったから、多少の踏み込んだ内容くらいなら、今ここで元気いっぱいに話し合っても問題はないように思われた。
「それはもちろん、かまいませんが」
「居心地が悪ければ、そのまま八番隊に来るって手もなくはない」
 この期に及んで、随分と率直な物言いだ。その手の話題にはどこか消極的だった昨日とは打って変わってである。冗談めかして返すべきか誠意をもって断るべきか、それとも第三の選択肢について臭わせておいたほうがいいのか、一瞬の逡巡がシグの言葉を詰まらせた。
「一度聞いてみたかったんだけど、シグはなぜ中部に? 二番隊から毎年ラブコールがかかってるはずだ」
「特別な……理由とかこだわりとかがあるわけじゃありません。俺はただ、より多くのニーベルングを討つならここがベストだと思っているだけで」
「より多くのニーベルングを討つ、が君の目的」
「何か、問題が?」
「いや。ただ少し違和感がある。それは『手段』ではなく?」
「そうですね。つきつめれば一手段なのかもしれませんが、どっちにしたってそう変わらないでしょう」
「そうかなぁ」
「自分なりに満足感の高いやり方をとっているだけですよ」
 全てのニーベルングを漏らさず討つことは、無理なことを知っている。自分が討たなければならないと決めたニーベルングを、都合よく厳選できないことも知っている。だからそれらしい場所でそれらしいことをやり続けるしかない。
 最前線と呼ばれ、命が簡単に天秤に載せられる中部第一支部は、分かりやすい充足感があった。なにひとつ成し遂げられないことが確定している場所で、空虚な達成感と満足感を享受することができた。
「……まあここは、いろんな意味で守りの要ではあるから。君がそれを望んでいるなら、ここに留まることに意味はあるのかもしれない。ただもし、君の目指すものが自己満足じゃないのなら──」
 水圧バルブをひねる音がやけに大きく響き渡った。シグの隣が、空間を切り取ったように途端に静まり返った。だから今までのどの言葉よりも一層、響く。
「八番隊は、君の新しい手段になるかもしれない」
 またすぐに、言葉を返せない。脳裡をよぎるのは、裏向きのまま差し出されたカード。シグはそれこそがジョーカーだと思っていた。約束された勝利ではなく、約束された混沌をもたらすカード。しかし、今、彼はジョーカーの所在が別にあることを知っている。場をかき乱すのは、他でもないシグ自身だ。
「ひょっとして本気で、勧誘してますか」
 シグもようやくバルブをひねる。無意味に流れていただけの水がぴたりと止まった。
「いや、ただの提案。君はたぶんもっと、自由に選んでいいんじゃないかと思ってさ。そのうちの選択肢のひとつだよ」
 サクヤの声は隣からではなく、右斜め後方から何でもないふうに流れてきた。わしわしとタオルで髪の毛の水分を拭き取りながら、世間話の延長のような雰囲気を保っている。
「シグ。その気になったらグラスハイムに来るといい」
 あまりにもきっぱりとそう言うから、またもや返答が遅れてしまう。今度は取り繕う前に、我慢できずに噴き出してしまった。
「やっぱり勧誘じゃないですか」
「捉え方次第だよ。君に協力するのに、今回みたいな特別な理由をいちいち作らなくていいのはお互い都合がいいだろう?」
 シグが織りなす言葉は、毎回喉元で一度詰まって溶けてなくなる。鳩が豆鉄砲を食ったような顔を晒して、てきぱきと身支度を整えるサクヤの背中を注視した。
 どこまでが本気でどこまでが社交辞令で、そういうことを分析していること自体がおそらく無意味だ。サクヤの言うとおりきっと捉え方次第で、互いに都合がいいということに間違いはない。
「──そうですね。考えておきます」