extra edition#12 冷たいカタルシス



 リュカ・バークレイは、物心ついたときから絶妙に鈍感な男だった。俗世に散りばめられた、いわゆる「知らないほうが幸せ」な類の事実はいつも彼の認識の外で展開されていた。ごく稀に、直接リュカに向けられる純然たる悪意や理不尽もあるにはあったが、それらも寝れば忘れる程度の些末事として分類されていた。いや、大抵は寝る前にすでに忘れている。だから、不安に押しつぶされそうな眠れぬ夜というものを、彼はあまり経験したことがない。
 毎日を楽しむことに関して、リュカには天賦の才があった。面白いことを見つけるために全身全霊をかけ、つまらないことを面白くする妙なセンスもあった。朝起きてから寝るまでの間に、一度はどこかで腹を抱えて笑っている。そういうリュカの生き方は、毎日を深刻に過ごすことを生きがいとした輩には当然受けが悪い。それにも関わらず、敵がさして多くないのは、リュカの冗句や悪戯に他者を貶める要素がないからかもしれない。どうにも馬鹿で、しようのない、でも憎めなくて、隣にいてくれると何故かありがたい奴──大抵の人間のリュカへの評価はこういうものだった。
 当人はこの評価に特に不満を持っていない。優秀の上に「最」がつく兄と比較されることに、とりわけストレスも感じない。自分の特性は、人生を満遍なく楽しむことに向いているという自覚があった。それなりの自己肯定感を持ち、それなりの給金を得て、それなりに恋愛を楽しみ、仲間や家族に囲まれて笑い合う毎日。それが理想で、概ね叶っている。
 しかしそうはいっても、避けては通れない悲しい大イベントというものはある。誰の人生にも。リュカの場合、その第一弾は両親との死別だった。共に医師であった両親は、中部を拠点にニブル病治療の最前線で活躍していたが、ニーベルングの襲撃により呆気なくこの世を去ってしまった。遺体は思ったより綺麗な形できちんと家に戻ってきて、葬儀も埋葬も兄・リュートと協力して滞りなく済ませることができた。人望のあった両親のために、たくさんの人が葬列に並び、涙を流してくれた。ありがたいと思い、誇らしいとも思った。
 こうして事実と感情の上澄みだけを並べてみると、よくできた美談になる。しかし、リュカは両親の死について思い返すとき、いつも決まって苦々しい気持ちになった。もの悲しさや寂しさとは違う、陰湿な嫌悪感が先行するのだ。──リュカは遺体を目の前にしても、多くの人間がその死を悼んでいても、終ぞ泣くことがなかった。棺が土に埋もれていく様、静かに泣く兄の後ろ姿、そういうお誂えの場面でさえ冷静に見届けた。葬儀中や墓石の前で正しく涙を流せる人たちを羨ましいとは思ったが、それはおそらくそのとき遺族が持つべき感情ではなかったと思う。
 これはさすがに「鈍感」の域を越えていやしないか。現実に自分の身に降り注いでいる最上級の悲しみにさえ、心が気づいていないのだから。さすがにそのときばかりは、自分の特性とやらに嫌気がさしたものだ。都合よく解釈していただけで、実は人としてどこか欠けているだけのとんでもない出来損ないなのではないかと、思わずにはいられなかった。
 それから数年の月日が流れた。彼は再び、自分の欠陥と向き合わねばならない状況に立たされている。


 アルバ暦835年、水の月。
 大陸西部に万全を期して構築、長きに渡ってニーベルングの侵攻を食い止めてきた第一防衛ラインが崩壊する。多勢のニーベルングによる複数箇所同時襲撃、それも未明の強襲とあって、グングニル側の対応は致命的なまでに遅れをとった。
 指揮系統が整うまでにかなりの時間を要し、その間、中部の外れの街や村落は軒並み蹂躙され、人々の慎ましやかな暮らしは一瞬にして跡形もなくなった。根も葉もないデマと憶測だけはやたらと迅速に飛び交う。「混乱と絶望の渦」とやらはどうやら人為的に生成されるらしく、人々は恐怖を煽るだけの不確かな情報に飛びつき、縋り、グングニル機関を非難した。ニーベルングの軍勢と暴徒と化した人々、その両輪は国土の半分を壊滅させ、グングニル機関の権威を地の底まで失墜させる──はずであった。
 第一防衛ライン崩壊から13時間。グングニル機関は本部第二番隊を現地へ派遣。事態の鎮圧を図ったわけではなく、あくまで時間稼ぎのための一手だった。しかしその目論見は一転、二番隊は、到着から僅か数時間で全てのニーベルングを撃破した。そこで彼らがどんな判断と選択を迫られたのかは誰も知らない。その奇跡に近い偉業は、部隊長リュート・バークレイ中尉を含む二番隊24名全員の命と引き換えに成し遂げられたものだったからだ。


 第一防衛ライン崩壊から48時間、二番隊壊滅の報せから30時間──。
 第一報から後、グングニル機関内は隊の垣根を越えて、おもちゃ箱をひっくり返したような混沌と混乱の最中にあった。中部第一支部の精鋭部隊と共に生存者の捜索に向かった本部五番隊は今はもぬけの殻。別件で重篤者など出そうものなら、歴史的空気読まずとして一生語り継がれることになるのだろうが、そもそも別件への対処は機能していない。どの支部も、どの隊も、この状況下で通常業務に当たれるほどの鋼の精神を持ち合わせてはいない。忙しなく右往左往している者の大半は、ただ意味もなくそうしているだけだ。
 続報はない。出撃命令もない。外はバケツをひっくり返したような激しい雨が降っている。もう塔の中にいようが外にいようが関係ない。積み上げてきた全てをぶちまけられた世界で、信憑性も何もない情報と癇癪を起こしたみたいな雨音が、鼓膜を伝って脳のなかで鳴りやまない。
 実質最前線となってしまった第二防衛ラインの守備補強に、三番隊と六番隊が駆り出されるまで、騒音はずっと続いていた。大小合わせて四部隊が根こそぎ塔内からいなくなると、目に見えて混乱していた隊員たちも逆に平静を装いだした。今ここに残っているのはこの期に及んでお呼びがかからない隊だ。その理由を腹の中で探り合っている。
 昼時だった。リュカは食堂に向かって歩いていた。すれ違う人々が皆、不自然なほどリュカと距離をとって道をあけてくる。確かにここで何の前触れもなくリュカが発狂して、誰彼構わず助けを求める可能性もなくはないわけで、そういうものに怯える人々の胸中を察すると何か不憫でもあった。不愉快とまでは言わないが、居心地はすこぶる悪い。
 廊下の対面に、疲れ切った表情で歩いてくるナギを見つけた。さすがに彼女は道をあけたりはしない。リュカの姿を認めて歩みを止めた。
「リュカ……」
「昼飯、もう食べた?」
 沈痛な面持ちでリュカが発した第一声に、ナギは困惑した表情を隠せないようだった。
「え、いや……まだ、だけど」
「じゃあ一緒に食おうよ。誰も誘ってくんない。っていうか、普通に腹減らない?」
 食堂は通常通り営業中だった。それはそうだろう、防衛ラインが崩壊しようがエリート部隊が壊滅しようが、仕入れた食材がいきなり腐るわけでも、調理人たちが再起不能になるわけでもない。そしてリュカの言うとおり、生きている人間の腹は減る。
 リュカはごく普通にグングニル特製カレーを注文して、バゲットとスープだけが載ったナギの簡素なトレイを不思議そうに見やりながら、ごく普通に胃の欲求を満たしていた。向かい合って黙々と食事を摂る二人、その様子を幾人かのギャラリーが一定の距離をあけて窺っていた。カレーをかきこんでいるだけなのに、こんなに注目されるのは初めてだ。
「リュカ、無理しなくても」
「いや、してない。まず実感ないしね。俺は昨日も一昨日もいつもと同じ生活してるだけだし。なんか違うと言えば、昨日も一昨日もまぁリュートには会ってないなってことくらいなんだけどさ。っていうか一緒に住んでなくて隊が違えば、会わない日なんかざらにあるじゃん? それがただ、続いてるだけっていうか」
 それがたぶん、明日も明後日もこの先ずっと続く。その事実をどう認識すべきかについて、リュカなりに懸命に考え、想像もしてはみるのだが、どうにも周囲と同じ境地には辿り着けそうになかった。
「できれば俺は、このまま実感とかしないで平穏に暮らしていきたいわ。ず~っと、最近会ってないな~って思ってたい。でもまぁ、そういうのは駄目なのは分かるから、許される間はただの馬鹿でいたいかなって」
 気を遣わせたくはないから、無理はしていない。だから思っていることをそこそこ素直に話したら、ナギが泣き出した。何故かわからないが、ゲームオーバー感が凄まじい。やっていることが裏目に出た模様。