「はい。魔ガンのメンテもカスタマイズも隊員の命を守るためのものですから。その『枷』がリュカさんの命を守ることにつながるんなら、喜んで」
息を呑む。その言葉に、微笑に、今の今まで欠片もなかった自信が溢れていたから。リュートが秘密の共有者に彼女を選んだ理由が、なんとなく分かった気がした。変な奴と、凄い奴はいつも紙一重で存在している。リュートもそう、サクヤもそう。そして彼女も。
「ハッ!」
そこまで思い至って、リュカは「重大なことに気づいたときの擬態語」を腹の底から叫んだ。ポートマン技師だけでなく、周囲にいた魔ガン技師も隊員たちも皆、肝をつぶして時を止めている。それらはもう、リュカにとっては些末事であった。
彼は気づいてしまった。悟りを開いたというべきか、もっと適切に言うならば、今この瞬間に彼の世界には天地を覆す大革命が起こっていた。
天啓を受けてからのリュカは、もはや無敵だった。今まで何を悩んでいたのだろうと、後悔の念さえ覚えた。その時間もたぶん勿体ない。だからそう、一皮も二皮も三皮も四皮も剥けた今のリュカがやるべきことは一つだ。
「人生を楽しむ。これに尽きる」
八番隊の執務室。ナギが生返事で紅茶を淹れてくれた。他人が淹れてくれたお茶ほど美味いものはない。書類の散らかったティーテーブルを前に、ソファーで踏ん反り返ってただ喉を潤す。仕事はしない。非番(になっているはず)だからだ。
「よくは分からないけど、……いい結論だとは思うよ」
「……ナギはまだまだなんだよな。うん、まだまだ。まともに見える。言ってることもやってることもすぐまともぶる」
「ありがとう。それが一番嬉しいわ」
「駄目だって。そこで満足しちゃ。俺みたいに行きたくない? 次のステージへ」
「ありがと、大丈夫。今は忙しいから遠慮しとくね。お茶おかわり淹れようか?」
「あ、もらうもらうっ」
ナギは広げた書類に被害が及ばないように、わざわざ席を立つ。その後ろ姿を不躾に観察しながら、リュカは考えた。ナギに足りないものは何なのか。筋力と胸囲のことは、確か本人が気にしているはずだから触れてはいけない。
「やっぱこう……もうちょっとワーって出していかないと」
「何を?」
「やっぱそうだわ。便秘になるとさ、いろんな関係なさそ~なところまで全部絶不調になるじゃん? 溜めこむのは、良くない」
「べん……ごめん、なんの話? 便秘? アンジェに言って薬もらおうか?」
「だ、か、ら、さ。溜め込んだら駄目なのよ。溜め込んでることに気づかないと駄目なのよ。出したらもう! すっきり! 朝日が美しい! 朝日あんま見ないけど」
「……出たんなら、良かったね」
リュカは不服だった。話が通じない。自分の知る限り、ナギは比較的よく泣くほうだと思う。些細なことで泣いてくれる奴だと思う。そしてその実、肝心なところで「大丈夫だ」を盾にすることも知っている。そういう意味では、さらに上手もいることを思い出して心の底から溜息が漏れた。
「隊長も、けっこう溜め込んでんじゃないかなぁ……」
「そんなの私に言われても」
あっけらかん。いや、僅かばかりだが拒否感すらもうかがえるナギの言い草に、リュカは絶望した。予想と違う。
「え、なんでそんな薄情なの? 仮にも補佐官でしょうがっ」
「いや、そこは補佐官とか関係なくない……?」
「関係──っ」
絶句だ。呼吸を忘れるほどの衝撃。この女、そこそこ善人面のくせに想像を絶する利己主義者だったのか。
リュカが眩暈で勢いよく俯いたところへ、仲裁者としてふさわしい人材が入室してきた。
「バルトぉ! 俺はもう、ナギとはやっていけないかもしれない! 矯正したほうがいい! 性根が腐ってる!」
「ちょ、はあ?! 今の話で何でそこまで言われないといけないのっ。意味がわからないんだけど!」
「意味わからんてどの口が言ってんですかー! この期に及んで逆切れだよ、とんでもねぇ!」
「落ち着けよ、さっぱり話が見えん」
バルトは呆れながらも慣れた様子だ。二人が口喧嘩をしていることは割とある。お互いストレス解消になっているのだろうし、内容は世にもどうでもいいことがほとんどだから目くじら立てる必要もない。淹れたてとは言い難いが、丁度良い温度に冷めた紅茶を勝手にカップに淹れて口をつけた瞬間を狙われた。
「だから! 隊長が結構溜まってそうだから! ナギが何とかしてやれないのかって言ってんのに『私関係ない』みたいな信じられないこと言うから!」
「関係ないとかじゃなくて、私じゃ無理だって言ってんの! アンジェリカとか、適任がいるでしょ?!」
噎せずに飲みこむことに、まず全神経を集中させる必要があった。味も温度ももはやどうでもいい。この非常識人たちを黙らせることが最優先事項だ。
「……待て、待て待て待てっ。マジでお前ら何の話してんだ……! とりあえず、ちょっと、声量下げろっ」
「なんで! 大事なことだろっ! 情がないっ。薄情とかじゃなくて無情のレベルでっ」
「だから情とかではどうにもなんないでしょって……自己責任でなんとかしてもらわないと。私も自分で何とかしてるし、普通みんなそうでしょ」
「そ! いやっ、まあ、そりゃ言っちまえばそうかもしれんが……」
バルトは口の中でごにょごにょと反論めいたことを呟いている。仲裁役としては心もとないバルトの態度に、ナギがしびれを切らした。というよりも、この話題をこれ以上広げることもも深めることもしたくない。これ見よがしな深々とした嘆息でそれをアピールした。
「食事メニューとかは多少管理できるかもしれないけど、運動不足なわけはないし、結局は薬が一番効くと思うけど……?」
バルトは眉間にしわを寄せたまま表情筋を強張らせていた。
「おい。もう一回聞くぞ。……これは、何の話だ」
「やり場のない感情の話だよ!」「便秘でしょ?」
『は?』
吐き捨てるような言い草から驚愕の奇声まで、リュカの低音とナギの高音は見事な和音を奏でた。一拍置いて互いに醜く罵り合う、そのタイミングも完璧に一致。気が合うのか合わないのか。そんな二人の騒音を背に、バルトは人知れず安堵と疲労の溜息をついていた。
ふと見た窓の向こうで雨が降っていた。騒がしさのせいで気づかずにいたらしい、遅ればせながらこちらにもしっかりと溜息を送る。
「……何なんだよ、お前は。泣いたり喚いたりにやにやしたり忙しい奴だな」
振り向いた先にリュカがいつもの締まりのない笑顔があった。泣き腫らした瞼だけが、いつもと違うパーツではあるのだが、これはこれで痛々しいというより笑える。これだけいろんな感情を選別なく垂れ流せるのだから、本人が言う感情のやり場というものは既に存在していそうなものだ。
バルトが肩を竦める。リュカは冷めた紅茶を満足そうに煽った。
窓の向こうでは、この時期に似つかわしい冷たい雨が降っていた。