「凄まじい……惨状、ですね。中将にお怪我は?」
「ない。塔内だからと油断したよ。君、後は任せて構わないか」
「もちろんです。……その女性は?」
「知らんよ。素性を調べて、本隊員なら査問にかけろ」
「合い鍵まで渡しておいて、今更素性を調べるっていうのは二度手間というか……意味あります?」
今の今まで神妙極まりない口調と表情だったその男は、突如としておどけたように肩を竦めてみせた。
「……貴様、どこの隊だ」
「本部二番隊所属、サクヤ・スタンフォード少尉です」
「スタンフォード……なるほど。お前の手引きか?」
「まさか。完全な通りすがりですよ。聡明な中将閣下ならもうお気づきかと思いますが、あなたは何者かに命を狙われている。ウォン軍曹はどう見ても現行犯だ。ただ、彼女との関係が表ざたになるのも中将閣下には百害あって一利なしというか」
「何が言いたい」
「ウィンウィンのご提案を」
「取引、ということか」
「体面無く言えばそうなります。こちらの提案は単純です。今回の首謀者を完全に失脚させる見返りに、ウォン軍曹の身柄を私にお譲りいただきたい。だいたいこう……こんな危険人物を中将閣下のお傍にはおいておけないでしょう」
「首謀者、か。おおよそ見当はつく。だがしかし、お前にその力があるか?」
「この手の後片付けは私の得意とするところですよ。力仕事ではありませんから」
「面白い。スタンフォード少尉、この件一旦お前に預けよう。お手並み拝見といこうじゃないか」
「ご厚意感謝いたします、中将」
イアン中将は余裕と平静を取り戻して笑うと、大惨事となった私室に全く未練も見せず、白ワインのボトルを一本持って去っていった。確か整備部かどこかに愛人がいたはずだから、今夜はそっちに行くのかもしれない。などとおぼろげな、かつどうでもいい情報を辿った後、サクヤは肺にたまった重い空気を全て吐きだした。安堵の溜息も度を超えると肺がきしむ。
「おっと……、アンジェリカ、立てる? 吐く?」
最初の質問に僅かに頷いて、アンジェリカはよろよろと立ちあがった。ニブル毒の痛烈な麻痺効果は今は薄れている。それが消えたことによる、無数の切り傷の痛みの方が今はつらい。
「申し訳、ありませんサクヤ少尉。……無関係なあなたをこんなに巻き込むつもりは……」
「いやいや、それは全然気にしなくていいよ。弱みにつけこんで恩を売ってるだけだから」
「またそういう……」
「ちょっと予想外だったのは……ほんとにやり方が……こう、ね」
数分前までイアン中将の私室だったこの場所は、今では戦争後の殺伐とした風景だ。ぐるりと見渡して力ない苦笑いをこぼす。
「言っておきますけど、あなたが無駄に負ったリスク分のリターン、私に返せるかは甚だ疑問です。特に少尉が期待してらした上層部の情報網なんか……」
「心配ないと思うけどな。君を引き抜きたいと思った理由はそれだけじゃないし。聞くかい?」
どちらでも良かったが少尉殿が話したいようなので、ここは素直に頷いておく。
「僕が助けたいと思った狸を、助けてくれたのは君だけだったからだよ」
予想通り、いや少し斜め上のどうでもいい理由だ。
そんなのたまたまだ。たまたま暇を持て余していて、狸自身もたまたま軽傷で、五番隊の誰もがサクヤの場違いな言動に免疫が無さ過ぎた中、自分だけがたまたま順応性を持っていた、それだけである。全てはただの偶然性の連続。
その偶然に今はありったけの感謝を送る。そしてひとつ、アンジェリカは小さな誓いをたてた。サクヤ・スタンフォードが助けたいと思ったものを、この先私はただ全力で助けるのだ、と。