extra edition#1 毒の蜜



頷くしかできない。そういう対処しか持っていない。自分が何に加担してしまったのか、薄々気が付いている。だから震えが止まらない。この先誰の身に何が起こるのか、ほとんどの予測がついてしまう。それは一切関係のない場所の話ではない。
「心配いらないよ。君はただ私を信じていればいい」
 頷くしかできない。こんな頭の悪い選択しかできないことが信じられない。
「君は何も心配しなくていい。全てうまくいく」
そうかもしれない。でもそうではないかもしれない。たとえうまくいったとして──私はそんなことを一寸たりとも望んでなどいない。
 ニブルは人を殺す毒の霧だ。それ以外には何の価値もない。
 アンジェリカは気分が悪いことを理由に少将の部屋を後にした。実際に気分が悪かった。心臓の鼓動がうるさい。それは生きていることの証。これが止まったら人は死ぬ。肺が空気を欲しがっている。生きていることの証。これが止まったら人は死ぬ。そんな単純なことが分からないほど自分は頭の悪い女だったのか。
 冷静なつもりだった。ゲームを、人生を、快楽を楽しんでいるつもりだった。そして人が知り得ない甘い蜜に溺れ、気が付いたらここまで堕ちていた。自分はこれから人殺しになる。それが確定した未来だと知ったとき、心臓が動いていることが気持ち悪くて仕方が無かった。
 兵舎の空中庭園、アンジェリカはぐにゃぐにゃと歪む世界に堪え切れず石畳の上に這いつくばった。
「アンジェリカ?」
人はそれを絶妙なタイミングと呼ぶ。勿論、悪いという方向での絶妙さだ。
「……サクヤさん。珍しいですね、兵舎にいるなんて」
地べたに座り込んだまま何の変哲もない世間話を持ちかける光景は、なんとも滑稽だ。さすがのサクヤも二の句が告げずに固まっている。
「僕は図書室に……じゃなくて、君こそどうしたの。衛生兵がここまで体調崩してるなんてのは、あまり見かけない光景だけど」
「そうかもしれませんね」
「医務室まで送ろうか」
「……必要ありません。あなたの言ったとおり、甘い蜜の、毒を呑みほしてしまっただけなので」
 そう遠くないどこかで誰かの談笑する声が聞こえた。それが普通。憩いの場である庭園で、物騒な会話、最悪な心中を吐露しているこちらの方が間違えている。
 アンジェリカは額を押さえこみながらふらりと立ちあがった。立ちあがっただけで、幽霊のようだ。サクヤが支えてなんとかベンチに腰を落ち着ける。
「人が、死ぬかもしれません。私のせいで……」
「なるほど」
合点がいったというふうに呟いて、サクヤは思案顔のまま隣に腰かけた。
「──かもしれないってことは、まだ相手は生きてるわけだ。心当たりは? 間に合うなら阻止するのがベストだなあ。それどう転んでも、君に全部お鉢がまわってくるよね」
「え……」
「考えなかったわけじゃないはずだ」
 愛していると言われるから、挨拶のようにオウム返ししていただけだ。溺れてなどいない。冷静さを欠いてなどいない。刺激的な毎日とそこに飛び交う特別な情報の──それはときに人の命よりも重い──味を楽しんでいただけ。
「買いかぶり、です。私……私は……」
その快楽と、自分と、特別な日常に酔っていただけ。
「君がまだ間に合うと判断するなら、僕は手助けする。それくらいの力は持っているつもりだよ」
 信じられないと思った、自分のことは。信じようがないと思った、リオ少将の言葉は。なのになぜ、サクヤの言葉はこんなにも力を持っているのだろう。根拠もない、見返りもな──いや、あった。
「サクヤ少尉。私は今からイアン中将の私室に向かいます。そこで何があっても自業自得ですから特別な手助けは必要ありません」
「手助けはいらない」
「ええ。背中を押していただいただけで充分」
アンジェリカは力無く笑う表情とは裏腹に、確かな足取りで踵を返した。


 イアン中将の私室。以前もらったから合い鍵は持っている。リオ少将とイアン中将の確執について詳しくは知らない。そんなものは無いのかもしれないが、中将がいなくなれば少将に全ての権限が委譲されることは確かだ。最近ニブル病を発症したイアン中将が、圧縮した冷却ニブルを口にすれば発作を起こして突然死する可能性はある。
 冷却ニブルは氷点下の環境では固体を保つが、それよりも温度が上がれば昇華する。気付かれず、確実に体内に送るなら液体に混ぜて水溶液化する他ない。無味無臭だが無色ではないから、溶媒は限られてくるはずだ。酒好きのイアン中将ならそう、赤ワインかブランデー。最初に口をつけない方。酔いが回れば多少の色の違いなんかに彼は気付かない。
 合い鍵を使って中へ入った。そこは無人ではなく、主が今まさにお気に入りのブランデーを開ける瞬間だった。
「……ウォンか。久しいな。ここのところ遊びが過ぎるようだが、今夜は何の気まぐれで私のところに?」
ご挨拶に応えている猶予はない。ほとんど小走りに近い形で距離をつめると、ブランデーグラスを奪い取って床にたたきつけた。呆気にとられたイアン中将をよそに、テーブルに鎮座していたボトルもろとも破壊する。
「ウォン、貴様血迷ったか!」
床に飛び散ったブランデーの香りが鼻の粘膜を刺激する。散乱したガラス片を踏み散らしながら、飾棚に陳列された名のある酒たちを次々と床にたたきつけた。
「やめ……やめんか! 何のつもりだ、貴様ぁぁあ!」
 背後で中将が銃を構える音がする。それでもまだ、止まるわけいはいかない。冷蔵室、いや冷凍室だ。飢えた獣のように一心不乱に中を物色し、邪魔なものを全て外へ放り投げた。誰がどう見ても狂乱した女の所業である。
 銃声が耳元で鳴った。背後で鳴ったのかもしれないが、弾丸はアンジェリカの耳元を通り過ぎ飾棚のガラスを木端微塵に砕いた。光の粒のような小さなガラス片は、アンジェリカの腕を、首筋を、頬をさらってきらきらと落ちた。そんな中、冷蔵室の真ん中で未だ包装紙にくるまれたままの赤ワインがあった。贈答品のようだ。イアン中将は、程よく酔いが進んだところでワインを楽しむ傾向がある。
 注ぎ口の部分を壁にたたきつけて割る。血のように赤い液が溢れ、アンジェリカの腕を伝い、床の絨毯を真っ赤に染めた。それを舌先でなめる。
「……あった……」
無味無臭。赤ワインに溶ければ気付かない、黒いニブル水溶液。一般人が分からなくても、ニブルの治療に従事していた者ならその違和に気づくことくらいできる。麻痺毒を呑んだように、すぐさま全身がしびれた。床に飛び散ったガラスを気に留めることもできず、全体重をかけて四つん這いになる。
(まずい……すごい、濃度)
「毒、か……ウォン、貴様」
 まずい。言い逃れしようにも、説明しようにも、身体の自由が一切きかない。早まったか。早まったな。もう少しうまいやり方があったようにも思えるが、後の祭りである。こんな状態で様々な覚悟を決めなければならないとは。
「中将、廊下に凄い音が……いかがされました」
「見ての通りだ。気の触れた女が私の私室に忍び込み、自ら盛った毒で自害しようとしているところだよ」