extra edition#3 アフォガートがとけるまで【Ⅰ】



 頭痛と吐き気、それに加えて全身に鉛をまとったような倦怠感。おかげでどうも調子が出ない。全細胞に最大出力で稼働するよう命令を出しているつもりなのに、良くて七割のパフォーマンスだ。モーターが全力で空回りし続けるような嫌な状態がここのところずっと続いている。それが任務にも日常生活にも際立った支障をきたすレベルでないのが、また厄介だった。調子は出ないが成果は通常通りあげてしまう。いつもと同じことをやろうと思えばできてしまう。傍目には分からない、当の本人でさえも首をかしげる程度の違和感。
 原因は案外に単純だった。たった一度の健康診断でそれは明らかになる。
 胃と食道のごく一部に、ニブル汚染による硬化症が見られた。今のところ肺や心臓にその兆候はなく、したがって今すぐに死に至るというものではない。ただ治癒もしない。血液に溶け込んだニブルは衰えることなく全身をめぐり、緩やかに、しかし確実に体内を蝕みつづける。
 事実を知らされまず思ったのは「困ったことになった」ということだった。驚愕はした、ような気はする。怒りも反射的に覚えたような気もするが、全世界のニブル病発症者の割合を鑑みれば、そこまで理不尽だとか不運だとかいう話でもないように思った。さらに言えば、母親も、同じ病で若くしてこの世を去っていたから、遺伝的にもニブルに対しては脆弱性を抱えていたのかもしれない、という妙な納得もあった。
 いずれにせよ、事実を理性的に受け入れるのにそう手間はとらなかった。ただ、そう。困ったことにはなったのだ。
 サクヤは、漠然と練っていた人生計画を大幅に修正せざるを得なくなっていた。


「で、お前は結局のところ、いつ頃死ぬ予定なの?」
 その質問は、まるで世間話の延長のようにチェス盤の向こうから投げられた。投げた本人は、盤上の駒をしげしげと眺めている。先だって申告してあった旅行の予定を問い直すような気軽さだった。ただそれは、何の冗談でも比喩でもない。文字通りの意味しかないことはサクヤにはよくわかっている。
「正確なところはわかりませんが、5、6年は平常運転でいけるようです。そのあとはまあ、その時次第というか」
「死んでるかもしれんし、生きてるかもしれん」
「生きてても五体満足、とはいかないかもしれません」
「ふぅぅぅん」
 対戦相手の生返事は、サクヤの律義な対応にというよりは、長考している次の一手に対するもののようだった。それ以降無言が、無音が続く。サクヤも相手も微動だにしない、かと思いきや、今までの熟考は何だったのかと思うほど無造作にポーンが動く。
 自らのターンを終えて、ようやく思考が会話のほうに向いたらしい。対戦相手である二番隊隊長、アサト・ブラックウェル大佐が今日初めて、サクヤの顔を真正面から見た。
「それは逆に5、6年は五体満足に生きてるってことだろ? 十分じゃねえの。だったら四の五の言わずに引き受けろよ」
「……アサトさん」
「何だよ、正論だろ? 5年経って生きてるか死んでるかなんか、別にお前じゃなくてもわかんねぇよ。何なら死んでる奴のほうが多いわ。逆にうっかりニーベルングのほうが絶滅してるって可能性もゼロじゃねえけどな」
悪びれもしない。質の悪い冗談を言っているつもりはないから、当然といえば当然だ。すべての会話は至って正常な域で交わされている。アサトの場合、それがほんの少し歯に衣着せぬ物言いなだけだ。
 アサトは常時口が悪い。口は悪いが所作は丁寧だし、心遣いやら思いやりみたいなものは人並み以上に持ち合わせている。そしてこの上なく聡明で理性的だ。少なくとも、部下としてのサクヤの目にはそのように映っている。
「……確認だけどな。グングニルを辞めるって選択肢は、ないんだな?」
「今のところ」
「だったらなおさら引き受けろ。責任と権限のある立場にいろ。でなきゃニブル病発症者は“人道的見地”から後方支援行きだって相場は決まってる。言っとくが、俺は擁護しないぜ。むしろ諸手を挙げての大賛成だね」
 サクヤは首を縦に振らない。静止したままの盤上に視線を落としただけで、脳の大部分はここではないどこか別の、時間と空間に占有されている。だから平常通り冷静に理解できたのは、自分がどこかで悪手をうったらしいということ。そしてそれがもう、立て直しが利かないということ。
「これ以上はやめておきます。打開策が見当たらない」
両手を挙げて降参の意を示すサクヤに、アサトはまたつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まぁいいわ。別に急ぎじゃねえ。持ち帰ってしばらく考えな」
「そうします」
 チェスも会話も、終始上の空だった。ついでに言うなら、対戦中にアサトが手ずから注いだスコッチにも気づかず、手付かずのままだった。   
 退出するサクヤには目もくれず、アサトは後に残された高級スコッチに同情を寄せる。
 平常通り、理性的に、客観的に、そして合理的にサクヤは今も思考をめぐらしていることだろう。そうである限り、アサトの提案に彼はイエスとは言わない。おそらく。
「ったく……素直に受け取れってんだよ。俺がお前らにしてやれる最後の置き土産なんだからよ。……どいつもこいつも」
 残されたスコッチを煽る。重要な局面に、それなりの色を添えてくれるのではないかと期待していたが結果は惨敗である。若いのは駄目だ。物の価値が分からない。視野狭窄で、肝要なのは理にかなった結果だと決めてかかる。だから死角に置かれた高級スコッチにも、いい女の意味ありげな視線にも、絶妙な塩梅で出した助け舟にも平気で気づかない。
 アサトとしては、最終的にはサクヤの首は折ってでも縦にふらせるつもりだった。ただ、もう少し待っていようという寛大で悠長な親心というのもあった。が、上司としても年の離れた友人としても、ある種理想的なその考え方は数日と持たず瓦解することになる。アサトは元来短気な男だった。そしてチャンスを見出すことに長けた男だった。


 その日も彼は、いつものように机仕事をこなし、いつものように会議に出席し、空いた時間は身辺整理に費やした。もともと執務室には最低限必要とされるものしか置いていない。つまりは、部下たちと嗜むチェスセットであったり、自宅には置いておけない高級酒であったり、寝泊まりするための着替えと寝具であったり、である。億劫だと感じるほどの荷物の量ではなかった。それがどこか空しくもあった。
 タイミングを見計らってかけてきたような通信の相手に、そんな胸中を呆気なく見透かされ、アサトは不快どころか一気にすがすがしい気分になった。
『辛気臭ぇ声だな! 部屋の片づけで感傷にでも浸ってたか!』
中部第二支部の支部長を務めるディラン。開口一番勝手なことを言っては一人で豪快に笑っている。
「遠からず近からずってとこだ。面倒くせぇと思う前に片付けが終わりそうで空しくなっちまったんだよ」
 通信機の向こうからはまた豪快な笑い声が響いていた。姿は見えないが、相変わらずのでかい声を耳にしただけで、相変わらずのでかい図体が想像できる。それに合わせて相変わらず器もでかいのだろう。いや、基準は逆なのかもしれない。器の大きさに外見が寄ってきたのか。
「そっちこそなんの用だ。応援要請なんか受けねえぞ。若くして華々しく勇退しちまう生きた伝説である俺は、これでけっこう忙しい。かわいい部下のお悩み相談受けたりとか、五番隊のねーちゃんたちの個人的なお別れ会のお誘いとかな」
「わっはは! 見栄を張るな、アサト! お前んとこの部下なんか、殺しても死なねえ可愛げもくそもねえのばっかりじゃねえか! っと、いやいや。そう言うもんじゃねえな。お前じゃなくていいんだよ。ちょっと一匹、生きのいいのをこっちに寄越せねえか? 5が扱える奴。いるだろ?」