extra edition#4 アフォガートがとけるまで【Ⅱ】



 サクヤが中部第二支部に着任してから三週間あまりが経った。彼の日々の業務といえば、鉱山までの往復ついでの哨戒、途中で出くわす好戦的なニーベルングの迎撃、スワンと地底湖の監視、それから雪かきと食事当番。これらが完全にルーチン化していて、今では一通りのことは何ら支障なくこなせるようになっている。余裕が生まれるから隙間時間が増える。そうでなくても事実、本当に「何もない日」というのは相当数あった。そんな日は、食堂や自室で各々だらだらと余暇を楽しむ者もいれば、屋内訓練場で汗を流す者もいる。
 サクヤとナギは後者にあたる。マイペースに射撃練習を行う二人の傍らで、マイペースにババ抜きに興じるネスとライアン。彼らは、屋内訓練場で汗を流す者を後目にだらだらと余暇を楽しむ、という性格の悪い過ごし方が好きだ。
「ライアンはさ、あれを見てどう思う?」
 残り五枚の手札の中央を、ネスは馬鹿みたいに突出させた状態で差し出した。ライアンはその右隣のカードを迷いなく抜き取る。そして悶絶する。
「どう? どうってどうよ。真面目だなぁって思うけどそれが?」
 やはり五枚になった手札の中央を、必要以上に押し出してネスが抜き取るの待つ。
「いや、見すぎじゃない? ここのところ作戦中も食事中も所かまわずあの熱視線よ。ちょっと憚るように言ってよ。俺、気になって集中力を欠く」
 言いながら彼が抜き取った右端のカードの中で、死神が笑う。カード越しに見えたライアンの顔も同じように満面の笑みだった。ネスはこれでもかというほど持ち札をシャッフルする。それを横目にいれつつ、ライアンも問題の人物を盗み見た。
 サクヤは自分の射撃はそこそこに、隣のレーンで淡々と引き金を引くナギの姿を見つめている。いや、正確に言うと観察している。さらに詳しく言うなら、それは蝉の羽化を見守る少年の瞳であって、熱視線であることに変わりはないのだが、ネスが勘ぐる類のものとはどうもちょっと違った意味のように思えた。
「サクヤ……、あの。何かフォームにまずいところがある?」
 観察対象であるナギ自身が、耐えきれなくなってサクヤに向き直る。そりゃ気になるよな、と思いながらライアンはネスからカードを一枚とる。ようやく手持ちのカードがペアになるが、今はそんなことよりサクヤの反応のほうが気になった。
「ああ、ごめん。むしろ逆だよ。ほとんど体がぶれないから、どうなってんのかなって。二の腕で支えてるわけじゃなさそうだし、胸筋は……違うだろうし」
 サクヤは悪気なく、ナギの二の腕から胸元にかけてざっと視線を動かす。ブリュンヒルデを撃った際の反動に耐えられるほどの、強靭な筋力を有しているとは思えない。むしろナギの体躯は、グングニル隊員はおろか一般女性の平均よりも随分細いように思えた。
「やっぱり特別体幹がいいのかな」
「……さあ。別に特別なことは何もやってないから」
 ナギは一瞬冷め切った目をサクヤに向けたかと思うと、それもすぐに逸らして踵を返した。荒々しくタオルをつかむと、そのまま無言で訓練場を後にした。後に残されたサクヤは状況が呑み込めていないらしい、鳩が豆鉄砲をくったような顔で言葉をなくしている。
 ちょうどいいタイミングでライアンの手元のカードが空になった。そのまま笑いをかみ殺しながら呆然とするサクヤに歩み寄る。
「サクヤー、今のはタブーだろ。特にナギは、あれで気にしてる」
「? 何を? 筋量なら女性隊員は当然──」
「だからその“胸筋”の話ね」
 ライアンが、これまたこれみよがしに強調した単語に、サクヤもようやく思い当たって全力でかぶりを振った。
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないよ……」
「セクハラ加害者はみんなそう言うからなー」
「なになにー。結局何の話だったわけー?」
 サクヤとライアンが隅でこそこそと盛り上がっているのを見て、ネスも合流してくる。
「ナギの胸筋の話」
 間違いではない。だが不適切だ。悪意しかないライアンの回答に対して弁明する猶予もなく、ネスはすべてを悟ったような憐憫のまなざしを惜しげもなく向けてきた。
「サクヤも命知らずだね……。わざわざそこに踏み込んでいく?」
「だから、そういうつもりじゃ……ブリュンヒルデの反動処理の話をしてたんだよ。その確認の仕方がまずかったというか、気が回らなかったというか……」
「確認? まさか揉んだの? 揉みカク? それはさすがにまずくない?」
「そんなことするわけないだろっ。話をややこしくしないでくれっ。ただの言い方の問題であって、そもそもそんなに気にするほど小さいってわけ、で、も」
 勢いという名の浅はかさが、サクヤの口を滑らせた。嘘偽りはない。むしろ擁護するつもりで思ったことをそのまま口にしたのだ。最後まで言い切れなかったのは、防寒装備を着込んだナギが能面さながらの無表情で眼前に立っていたからだ。気配がなかった。そんなスキルがあるとは聞いていない。
「坑道、交代の時間」
 必要最低限の単語だけを並べて立ち去るナギ。その後ろ姿をサクヤは黙って見送るしかできない。いや、確固たる意志でこれ以上余計なことを言わないよう努めたのだ。後の祭りだということは重々承知の上である。
 ライアンが静かに憐憫のまなざしを向けてくる。
「……今のは、あれだ。弁解の余地なしだったな、本音だし」
 サクヤはこれにもだんまりを決め込む。そのまま神妙な面持ちで歩を進めた。彼らの相手より、ナギへのフォローをいかようにするかを考えるべきだ。この後少なくとも八時間は二人きりでスワンの見張りをせねばならない。何事もなかったかのように振る舞うべきか、意を決して自分の配慮の無さを詫びるべきか、思いつく解決策がどちらも不正解のような気がしてならない。嘆息だけが迷いなく出た。態度が決まらないまま表に出たが、ナギは予想に反して、こちらを待ちかねていたようだった。
「上、フラミンゴ」
 合言葉のような必要最低限の単語だけで会話を済ませるナギ。一応これで用は足りている。サクヤは特に疑問符を浮かべることもなく、その意図を汲み取って空を見た。基地の上空300メートルといったところを鮮やかな朱色のニーベルングが旋回している。一瞥して、サクヤはすぐにジャケットの内ポケットをまさぐった。
「10時25分……と、今26分まわったとこ。秒数まではいらないでしょ?」
 サクヤが目当てのもの──この場合、愛用の懐中時計のことだが──それを探り当てる前に、ナギが必要な情報をそろえてくれた。
「至れり尽くせりだ」
「そりゃ毎回横で同じことされれば先回りくらいできるよ」
 サクヤは時計の替わりに年季の入った皮の手帳を取り出して、今言われた時刻を書き記した。見開きの頁には、日付、時刻、おおよその高度が整然と羅列してある。それらはすべて、中部第二支部着任二日に捕捉したニーベルング“フラミンゴ(仮)”の目撃記録だ。事情を説明して、他の隊員たちにも協力を仰いでいたから、既に何らかの規則性が浮かび上がってもいいような数、数値は出そろっている。そのはずなのだが。
「う~……ん。いまいち、ピンとこないなあ。そもそも数列化しようとすること自体が的外れなのか……」
 書き込んだばかりの数値の上を、ペンでとんとんと突きながらサクヤは独り言ちた。
 予想に反して、というか期待に反して、今のところこれといった法則性は見つかっていない。旋回する「だけ」のニーベルングが目撃される時刻も、場所も、高度もてんでばらばらだ。
 ただあまりにも目撃され過ぎている気はする。さらに不可解なことには、こちらが威嚇射撃をしても絶対にのってこない。
 特定のニーベルングが、やたらに人前に姿を現して特定の行動パターンを繰り返す──その意図がわからない。何かしらの機能を果たしているとは思うのだが、それが当初の仮説である偵察役かどうかは確信が持てないままだった。気まぐれな偵察なら、法則性は必要ないのかもしれない。そもそも偵察という役割が自分の思い込みに過ぎないわけで。