extra edition#4 アフォガートがとけるまで【Ⅱ】



「なんか、ごめんね……?」
 などと思索に耽っているところに、ナギの申し訳なさそうな声が降ってきた。拍子遅れで疑問符を返す。
「え、じゃなくて。そういうの、私たち第二の人間が調査しておくべきことだったんだろうなって思って。スワンの対処だって、キャプテンから一任っていうか……丸投げされてるでしょ」
 ナギは言葉を吟味して、より身も蓋もない言い方を選ぶ。
「そのために呼ばれたんだし、実をいうとこういうことを考えるのは嫌いじゃないんだ。こっちに関して言えば、どちらかというと僕の趣味みたいなものだしね」
 手帳を軽く掲げてから荷物の中に入れ込んだ。
 グングニル機関の任務はあくまでもニーベルングの討伐であって、生態調査の類は学者の領域だ。そちら側においそれと踏み込むと、本部では嫌な顔をされる。討伐する側にとっては、必要とされる情報は限られているし、その他の多くの情報は不明のままである方が望ましい。莫大な予算や人手不足に目をつむれば、グングニル機関は概ねうまく機能していたから、その安定を揺らがすような不要な真実が、彼らに歓迎されないのもうなずける。
 そんなふうに機関の立場を理解し、そこに所属している以上尊重もするのだが、では従順に労働力のみ奉仕するかといわれれば当然話は別である。サクヤにとって、健全な好奇心と知識欲は何にも勝って優先されなければならない衝動のひとつだ。そういう意味では、サクヤは中部において思い切り羽根を伸ばしているといっていい。
「負担じゃないなら、良かったけど」
「雪かき当番以外は比較的余裕を持ちながらやれてるよ。そうだ、余裕といえば、交代まで時間に余裕があるなら寄り道しても?」
「それは構わないけど……。交戦はなしね」
「それはもちろん。ちょっと確認しておきたいことがあるだけだからね」
 サクヤの言う寄り道コースも、もう何度目かになるのでナギには知れている。スワンが居座るラインタイト鉱山までの最短距離から少し逸れて、傾斜を下っていくと山林地帯に入る。その入り口付近にある渓流が、以前ナギが言っていた“ニブルの吹き溜まり”にあたるのだ。
 雪をこんもりと乗せた枯れ木が茂り始める頃に、サクヤはマスクを装着する。その横で当然のように何もつけない、着けようという素振りすら見せないナギに、サクヤはいつものように一瞬だけ諦めたように視線を送った。一応いつもマスクを腰にぶら下げていることは知っている。ただそれは、ナギにとっては制服の一部のようなもので、実用性も重要性も持たないお飾りに等しかった。
 サクヤとナギが陣取った高台からは、渓流の大部分が見下ろせる。イーグル級二体とバーディー級三体が確認できた。それぞれに長い首をあちらこちらにもたげて落ち着きなく動き回っている。この場所はスヴァルト地区のニーベルングにとってはさながらサロンのようなものらしく、タイミングが合えば、こうして水辺で戯れるニーベルングたちを観察することができた。
「こちらが仕掛けなければ仕掛けてはこない、か」
 初めてナギにここを案内された日に言われたことを、確かめるように反芻した。未だにその法則は破られていない。こちらが彼らを遠巻きに見ていることを、彼らはおそらく承知している。その証拠に、時折牽制するように微動だにせず、二人を凝視することがあった。
「サクヤ、そろそろ。時間も時間だし、正直寒いし」
「うぅん」
 これが生返事だといわんばかりの、お手本のような生返事をしてはいるが、サクヤの足はその場に張り付いたまま、右手は顎下へあてがわれている。
「高濃度のニブルが検知されるのは基地周辺だとこの一帯だけだったよね?」
「そうだね、高濃度のものは」
「これより上流のニブルは段階的に濃度が低くなる」
「……それ、この前自分で調べたでしょ」
 ナギは「寄り道」と称される、その調査に毎度付き合わされている。結論として、今サクヤが呟いたことが証明された。ここより上流は低濃度、かつ微量のニブルが検知されるのみである。
「でも検知はされる。水の流れに沿って。源泉がニブルの発生に関係してないとすると、上流からこの場所に至るどこかのポイントにニブルの発生源があることになる。……自然発生してるものじゃないとすればね」
 サクヤが苦笑いしたのは、もしこの場所のニブルが自然発生しているとしたなら、それはムスペル地区以来の最低最悪な発見になってしまうからだ。今現在、スヴァルト地区にニブル病が蔓延していないのは、おそらくはニブルが水溶液化して大気中に拡散していないおかげである。
 視界を埋め尽くす雪景色とは裏腹に、ニブル問題としてはスヴァルト地区は薄氷の上を渡っている。
 虫の知らせとまではいかないが、ちょっとした胸騒ぎを覚えて、ナギが先手を打った。
「まさか確認したいことって……」
「今日は交代まで時間がないから無理だとわかってはいるけど、この場所は見ておくべきだと思ってる。仮にニブルがこの場所で発生してるんだとしても、それはあまり放っておいていい案件じゃない」
「それはもちろん……そうなんだけど。私にゴーサイン出せる権限はない。今のは直接キャプテンに言わないと」
「分かってるよ。そのときはナギが多少擁護してくれると助かる」
「必要なら、ね」
 サクヤが率先しては移動しようとしないので、ナギのほうからその場を離れることにした。それでようやくサクヤも歩を進めてくれたが、視線は未練がましくニーベルングたちに注がれていた。
 誰かがへたくそな口笛を吹いたように、風が鳴った。惰性で降っていた雪がその風にのって激しく舞う。どちらともなく歩を速めた。坑道の入り口に辿り着くまでに、視界は白一色に塗り替えられていた。
「おつかれさーん。降ってきちゃったなぁ」
「こりゃ俺たちは、しばらく待機だな」
 坑内で使用されている特別性ランタン──要は、何かのはずみでラインタイトに引火しないよう重層に作られている──そのおかげで、入った瞬間に家に帰ってきたような安心感があった。先の見張り組であるジェシーとハロルドの笑い声もそれに一役買っている。二人はスワンが眠る地底湖の前でカードゲームに興じていた。場に無造作に投げられたカードと手札の差し出し方からしておそらく「ババ抜き」だと思われる。どうも密かに流行っているらしい。
 スワンの見張りは、重要ではあるがいかんせん暇だ。8時間もの間、真面目に心頭滅却している精神力は誰も持ち合わせていないから、皆思い思いの方法で時間をつぶす。それが二人ババ抜きだったり、リバーシだったり、あっち向いてホイだったりするだけで、そう大差はない。
「吹雪くかもしれない」
「ああ、どっちにしろ缶詰だ。待機小屋にいるから何かあったら声かけな」
 ジェシーとハロルドはババ抜きの続きをそのままやるらしい、それぞれが手札を持ったまま、場に出したカードは適当にかき集めて坑道外部に設置してあるコテージに移動していった。
 ナギがランプにオイルを補充する横で、サクヤはてきぱきと周辺地図を広げ、手帳に記した様々な数値と、持参した小難しそうな文献を照合し始める。静かで、他の何にも煩わされないこの場所は、サクヤにとってはある意味で最高の秘密基地だった。
「ねえ」
 いつもなら、ナギもこの光景を邪魔しないように見守るのだが、今日に限ってはいささか事情が違うらしい。
「今朝の話なんだけど」
 機敏だったサクヤの動きが一瞬見事に静止する。今まさに掘り起こされようとしている不発弾に対して、彼は何の上策も準備できないままだ。だから素知らぬ顔で、うん、などとただ相槌をうった。