extra edition#7 靴はなくてもワルツは踊れる


 鍛えあげた屈強な肉体と、学んできた戦略、培ってきた銃火器の技術、そういうものを生かして軍に所属することに、彼は何の疑問も抱いてこなかった。人並み以上の正義感、何か大きなものを守りたいという漠然とした大志、持ち合わせた性質のすべてが軍属には向いていた。もちろん、親類に軍人が多かったのも大きな理由のひとつだ。
 しかしながら、彼が子供の時分に世界情勢が大きく変わってしまった。ニーベルングという得体のしれない怪物の出現である。
 今になって思えば不謹慎だと分かるのだが、当時の彼にとってそれは、倒すべき絶対悪の登場に他ならなかった。国と国民を守り戦う軍人たちに、さらに期待と憧れを持った──のだが、世界はどうも、彼の想像とは違う方向へ展開していくようだった。
 有翼の魔物ニーベルングに対して、軍は全くの無力だった。その皮膚はどんな兵器を以てしても傷ひとつつかず、たった一体の、成人男性ほどの大きさのそれにさえ、人々はなすがままに蹂躙された。
 そんな中、対ニーベルング専門機関「グングニル」が発足。新たに開発された「魔ガン」と呼ばれる特殊な銃器を駆使し、ニーベルングを殺せる唯一の組織として台頭した。世界を守る役割は、誰の目にも「グングニル」に移譲されたように映った。
「それで、なんで敢えて陸軍に? ヒーローになりたかったんでしょう? バルト少尉は」
 グングニル塔、五番隊が常駐する医務室のベッドに、バルトは俯せに寝ころんでいた。背中から声が聞こえてくるのは、女が馬乗りになっているからだ。質問に答えようとしたところで、肩甲骨のあたりをこっぴどく押さえ込まれる。
「あだだだだだだ! もうちょっ、優しく、できないのか、あんた!」
「バルト少尉も、もう少し女性に優しくあたったほうが賢明ですよ。グングニルには女性隊員も多くいますから」
 女は何食わぬ顔で指圧を続ける。医務室には(おそらくその外にも)先刻からバルトの野太い悲鳴が断続的にこだましていた。この拷問によく似た治療は、週1回のペースで繰り広げられる、五番隊にとっては見慣れた風景だった。
「お疲れ様でした。今日はこのあたりにしておきましょう。気候によって痛みが出るのは、もう仕方ありませんし」
「そうみたいだな。それでもここに来た後は調子がいい」
 身を起こして、荒っぽくほぐされた左肩をまわす。荒っぽくはあったが、随分軽くもなっている。アンジェリカは、バルトが知る中では一番腕がいい指圧師であり整体師だ。治療が上手く、話題も豊富で、聞き上手。おまけに美人である、というところは意識しないようにしている。当然、口に出したりはしない。
「さっきの質問だけどな。単純に、ニーベルングってのと面識がなかったんだよ。中央区にいながらニーベルング沙汰に巻き込まれるっていうのは、相当に稀だろう? 現実味のない脅威に対する実態のぼやっとした組織くらいに思ってたんだ」
 あけすけ過ぎるバルトの物言いにアンジェリカの表情も和らぐ。
「なるほど。そういうことなら、どうしてグングニルに? が正しい質問だったかしら」
「そりゃあ、肩を壊して使い物にならなくなったたたき上げの兵士を、拾ってくれるっつうんで……」
 ──渡りに船とばかりに飛びついた。その頃には、ニーベルングの脅威も、グングニルの存在も、バルトの中でしっかりと形を成していたし、そういう船を出してくれるコネクションも持っていた。それらはいずれも、偶然の出会いによってもたらされた産物だ。そしてその偶然は、バルトの人生観を変えるきっかけの出来事でもある。
「──ちょっと面白い奴にあっちまってな」
「お茶でもいれましょうか?」
 バルトが自分のことを話したいような素振りを見せるのは珍しい。アンジェリカは終業時間を超えていることも構わず、聞き手に回ることにした。


 当時の一部始終は、バルトの記憶に思いのほか克明に刻まれている。
 アルバ暦830年。中部ヨトゥン地区の南端に位置する都市ミーミルで、バルトは気ままな休暇を楽しんでいた。
 ミーミルは、街の規模こそ主都ほどではないが、行楽期は多くの観光客で賑わう活気のあるリゾートだ。街のはずれにある国内随一の湯量を誇る温泉が、目下バルトのお目当てであった。長年の軍属がたたってか彼はこの頃すでに左肩を壊していたから、その湯治のため、あるいは単に日常を忘れるため、中央から足を延ばしてここまで来たのである。
「お~。いいじゃねぇか、思ったよりゆっくりできそうだ」
 生まれたままの姿──、一歩手前の水泳用パンツ一丁で、バルトはのしのしと広大な温泉リゾートの中を歩き回った。リゾートと言っても、人の手はほとんど入っていない。源泉が長い年月をかけ、周囲の岩肌を溶かし、削り、美しい棚田状の天然バスタブを作り上げた。そのうちの一つを贅沢に占拠する。緩やかに流れる湯に身体を沈めて肩まで浸かると、絶妙な力加減でマッサージされているような感覚になった。
「最高じゃねえか……」
 時間の流れ方がいつもと違う。水の流れる音も、家族連れのはしゃぐ声も、学生らしきグループの他愛ないおしゃべりも、特にうるさく感じない。皆、節度を守ってそれぞれに癒されたり楽しんだりしているようだった。そんな中でバルトのような存在が浮き立ってしまうかというと、そういうわけでもない。区分けされた天然バスタブのいくつかは、彼のような屈強な身体の持ち主で占められていた。彼らがここで過ごすのも、おそらくはバルトと同じ理由からなのだろう。ぼんやりと遠くの山並みを眺める者もあれば、腹の底から安堵の声を漏らす者もある。バルトの隣の窪みでは、ミネラル豊富と謳われる温泉の泥を全身に塗りたくってくつろいでいる若者もいる。リゾートは人を選ばない。誰も拒まない。楽しみ方は自由だ。
 このまま暫く温泉に浸かって、街に戻ったら精がつくものを食べて、何の憂いもなくぐっすりと眠る。バルトも、そういった当たり前の衣食住を贅沢に満たすことが主目的だった。それで大抵の憂鬱な気分は跡形もなく吹き飛ばせると考えている。
 実際既に、バルトの抱えていた鬱屈とした気分は、立ち上る温泉の湯気とともに昇華されつつあった。ゆらゆらと昇っていく蒸気、その先に広がる碧空。二羽の鳥がもつれあいながら飛んでいる。つがいだろうか。何かの鳥を見かけるだけでも珍しい世の中で、これは相当についているかもしれない。
「うわあ……ついてない」
 同じように空を見ていた隣の男が、泥パックの上からでも分かるくらいに苦悶の表情を浮かべてつぶやいた。あまりに見事に正反対の感慨を口にされたせいで、バルトの意識は一瞬そちらに奪われる。が、間髪入れず轟いた悲鳴で、弛緩しきっていた意識だの神経だのは概ねすべてそちらへもっていかれた。
 皆が皆、一様に空を指して絶叫している。晴れ渡った空には二羽の巨大な鳥。いや、巨大すぎる。どう見ても、二羽とも自分と同じくらいの大きさがある。
「ニ、ニーベルングってやつか、もしかして」
 置かれている状況を正しく認識するために数秒を要した。まさかこんなところに、という思いと、まさかこんな状況──当然のことながら今のバルトは丸腰を越えた丸裸だ──で、という思いが迅速な判断を阻害した。その間に、脊髄で自らの行動を決定した者たちは、ありったけの悲鳴をあげ、泣きわめき、カップルなんかは抱き合った。この世の終わりの光景を見せつけられて、バルトは逆に冷静さを取り戻す。
「いやいやいや……! 避難だ避難! 刺激しないように建物の中に!」
 言いながら棚田の下層で身動きがとれなくなった子供たちのもとへそろりそろりとにじり寄る。座り込んでしまった子どもの一人を俵のように抱えて、後ずされる気概がある子はそのまま腰からひきずった。
「悲鳴はあげるな! 何に反応して攻撃してくるかよく分からねぇ! おいそこの彼氏! ちょっとねーちゃん黙らせとけ!」
 人の悲鳴は恐怖を煽る。とりわけ女の金切り声は、その効果が高いように思われた。課された任務のように断続的に叫んでいた女の口を、パートナーらしき男が慌てて塞いでいた。