extra edition#7 靴はなくてもワルツは踊れる


 バルトは目につく限りで子供たちをかき集めては、何度か棚田を往復して上層に併設してあるカフェテリアの中へ放り込んだ。おそらくバルトと同じような職に就いており、同じような理由でここで余暇を過ごしていた男たちも、率先して避難誘導に当たってくれる。できればこのまま、何事もなくニーベルングが通り過ぎてくれればと、一応の期待は持った。そういう淡くて脆い希望が粉砕されることは世の常だったので、二体のニーベルングが二体とも温泉の上に腰を下ろしたのを見ても落胆はしなかった。
「こんな市街地に悠々と現れちまうもんなのかよ、しかも二体も。とりあえずグングニル機関に連絡か……?」
「それは今、スタッフの人に頼んできました。ここから一番近いのは中部第一支部だと思うんですが、到着まで時間がかかるでしょうね」
 バルトの独り言を拾ったのは、先刻まで隣で泥パックに勤しんでいた若い男だった。彼もまた慌てふためいて飛び出してきたのだろう、身体のあちこちにミネラルたっぷりの泥をつけたままで、さながら出土したての土偶のようである。
「おお、助かる。しっかしそうか、まあ市内からはちっと離れてるからな。……ということは、相手の出方次第か。街をぶっ壊しにきたのか、人間をぶっ殺しにきたのか、観光にきたのか温泉に浸かりにきたのか……」
 開け放たれたカフェテリアのバルコニーからは、猛り狂う一体のニーベルングの姿がありありと見て取れる。ニーベルングの中ではおそらく小さいタイプなのだろう。それでも、人のものとも獣のそれとも違う鳴き声は、無防備にバカンスを楽しんでいた人々を恐怖の底へ叩き落すには十分すぎる異質性を持っていた。
「出方次第、か。確かに。向こうも非番だとありがたいですね」
 土偶もどきの青年は、慌てて引きあげてきた割には独特の余裕を持ち合わせていた。バルトの場違いな冗談に感心しつつ、特に取り乱す様子もなく成り行きを見守っている。こういう状況でこういう人材は貴重だ。バルトはここぞとばかりに、塔のように積み上げたバスタオルを
土偶青年にのしつけて客たちに配るよう指示した。ニーベルングは相変わらず奇声を発しつづけてはいるが、こちらに突進してくるような素振りはない。手の空いたものには、すべての出入り口を閉ざして、バリケードを作るように伝える。
「手慣れていますね? ……もしかしてグングニル隊員?」
 最後のタオルをバルトに手渡しながら、土偶青年が疑問符を投げてきた。
「は? 俺か? まさか。グングニル隊員殿ならこんなまどろっこしい真似せず、あれをやっつけちまうんだろうからな。俺は陸軍中央大隊所属、バルト・ガリアス少尉だ」
 思わぬタイミングで身分を明かすことになってしまったが、バルトの機敏で的確な立ち振る舞いによって人々は冷静さを取り戻しはじめていたし、その所属を耳にしてより一層の安堵を覚えていた。誰の指示を仰ぎ、誰を頼ればいいか、客の間では暗黙の上で共有されたようだった。
「バルト少尉は休暇でここへ?」
「おう。たまにはのんびり羽根をのばすのもいいかと思ったんだが、どうもそうわけにもいかなそうだ。……あれは結局何しに来たんだろうな、俺にはギャーギャー鳴いてるだけにしか見えんが」
「何をしに、ですか」
「いや、あるだろ? 怪物ったって生き物なんだから、なんか理由とか目的とか」
「ニーベルングは一般的には、人を殺すのを楽しんでいるように言われていますが」
「そうなのか? まぁどっちだっていいんだけどよ、今はそうも言ってられねえだろ? あっちが殺る気まんまんだとしたら、こんなバリケード、意味なんかねえわけで」
 バルトがぽろりと漏らした本音のせいで、ただひとつのよすがとばかりに懸命にテーブルや椅子を積み上げていた男たちの手が止まった。空いたスペースにかたまっていた女性陣が再び嗚咽を漏らし始める。後はドミノ倒しのように、子どもが訳も分からないまま号泣、ペットの犬が共鳴して無駄吠えという始末だ。大失態である。
「待て待て、悪かった。言葉の文(あや)ってやつだっ。見たところ殺人狂のニーベルングってのとは違うんじゃねえかっていう話でな!」
「そうですね、猛り狂ってるのは一体だけのようだし……。もう一体は何をしてるんだろう」
 土偶青年は、ここでようやく顔に塗りたくっていた泥を丹念にぬぐい始めた。軽くなった顔面をバリケードの隙間からのぞかせて、音沙汰のないほうのニーベルングに目を凝らす。うずくまったまま微動だにしない。一瞥しただけだと、やはり温泉を堪能しているようにしか見えない。しかし注視すれば、いくつかの違和感に気づくのはそう難しいことでもなかった。
「怪我を負っている、みたいですね。かなり深手の」
 閉じた羽の根本付近がただれている。そこから温泉の蒸気とは別の黒煙が、か細く、しかし確かに立ち上っていた。皮膚か臓器がまだ燃えているのかもしれない。
 バルトも同じように、隙間から二体のニーベルングを観察した。
「みたいだな。っていうことは、あのチンピラみたいな騒ぎ方はこっちへの威嚇か。このままこっちが刺激しなけりゃ、なんとか凌げるかもしれねぇな」
 フロア内にまた安堵が広がる。先刻の失言を撤回するくらいの効力はあったらしい。犬は相変わらず馬鹿みたいに吠えつづけていたが、家族は家族で、友人は友人で、恋人は恋人で、互いを励まし支えあおうといった気概が生まれ始めた。温泉リゾートに一人気ままにやってくるのはバルトと似たような立場にある輩だから、初めからそこまで気を遣う必要はない。
 なにはともあれ最悪の状況というやつは避けられそうだ。着替えを済ませて、裏口から速やかに脱出というのが一番最善の選択のように思われた。
「あの……」
 中肉中背の、その割にどこか頼りなげな男が伏し目がちにバルトに声をかけてきた。血の気がない。もともとというわけではなさそうだ、それを察したところでバルトの脳裏には嫌な予想だけが次々とよぎっていく。
「彼女がその……どこにも、いなくて。下流で泥パックするって、ちょっと離れてたんですけど……」
 泥パックという単語を聞いて、バルトは真っ先に隣の土偶青年を見た。さすがの彼も、いい加減全身の泥をぬぐっていたし、土偶青年だとか泥パックマンだとか呼ぶのも違う気がする。そもそも彼は、いろいろな情報にたいしてかぶりを振っている。
「つまり、あの。まだ外に……いるのかもしれなくて」
 男がどんどん小声になって俯いていくのとは対照的に、バルトは思い切り天を仰いだ。これで「刺激をしなければ」とい大前提が瓦解確定だ。これからバルトは、泥パックに命を懸けた女性を救うために、命を懸けてニーベルングを刺激しにいかなければならない。最悪だ。男なら自分で助けに行け! という言葉が口をついて出そうになったが、そこは我慢だ。下手をすれば、回避したはずの最悪の事態に陥ってしまう。
 嘆息ひとつで諦めをつけて、比較的落ち着いている数人に避難誘導の指揮を執ってもらうよう頼んだ。皆、不安は渦巻いていたが、混乱や極度の恐怖状態にはもうない。唯一の救いだ。 残ろうかどうしようかなどと未だに無駄な葛藤を抱える件の男を追い出したあと、バルトはカフェテリア内の備品を物色しはじめた。護身用のライフルが一丁、ハンドガンが二丁、薪割り用の鉈、解体用の鋸、調理用油、カトラリーセット、消化器、エトセトラ……。
「心もとなすぎるだろ……。せめて散弾銃くらいほしいところだよなあ」
そんなものが護身用に据え置かれていても、それはそれで末恐ろしいことに変わりはないのだが。
「バルト少尉、鼻と口は覆ったほうがいい。あの様子だと結構吐きちらかしてますよ」
「ん? ああ、“ニブル”か。悪いな」
 後方から差し出されたテーブルナプキンを手慣れた強盗のように後ろ手に結ぶ、途中でその息の合った流れに違和感を覚えた。
「って、あんた避難は」
 土偶青年──いや、ここはそろそろ訂正すべきだ。青年はバルトの目から見ても端正な顔つきをしていたし、何かスポーツでもやっているのかバランスの良い引き締まった身体をしていた。泥パック無き今、この少しばかり眩しい男を、たとえ胸中だけにせよ土偶呼ばわりは無理がある。
「なんというか、何か手伝えることもあるかと思いまして」
「助かるような助からないような返事だな、そりゃ。あんた学生さんか? この界隈じゃ珍しくもないんだろうが」