extra edition#7 靴はなくてもワルツは踊れる


 ニブル病に特効薬はない。この先医学やニブル研究が進み、それらが開発される未来があったとして、それでも現時点でそれは存在しない。だから何をしても、しなくても、じわじわとニブルは体内を蝕み、やがては全身が浸食されて死に至る。あるいは先に、呼吸器がやられればそれまでの話だ。
「すまん、あまりにも軽率な発言だった」
「いや、僕が軽率に話しているからね。バルトの言わんとすることは分かる。それなりに紆余曲折あって、やっとここに辿り着けていることは確かだ。でも五体満足に動けるうちに、やりたいことがある」
「やりたいこと、か。それはもちろん新しい隊をつくりあげるってことじゃあないんだな?」
 サクヤが浮かべる笑みが湯気で揺らいだ。
「舞台裏を覗いてみたいと思っているだけだよ。グングニルとニーベルングの関係くらいは暴いておきたい。新しい隊には、そのための助けになってくれる人を集めている、といったところかな」
 バルトの脳内では、混乱と驚愕、後悔と反省とが、攪拌され、整形され、新たな何かに生まれ変わろうとしていた。動悸と息切れがするのは、少し長く湯に浸かりすぎたせいだと思いたい。が、冷静になればなるほど、サクヤの言葉の端々を丹念に拾ってしまい混乱が増す。悪循環だ。
「また、あんたは……今、かなりやばめの内容をさらっと口走ったよな……?」
「さあ? どうかな。まあ、グングニル関係者が利用しないこの場所なら、多少の失言は問題ないと思うよ」
「クーデターでも起こそうってのか」
「そんな大それたことじゃない。この世界に生まれた人間として、この世界のことを理解して死にたいと、そう思ってる」
 サクヤは、限りの見え始めた時間をそのように使うらしい。
「人間代表みたいなこと言いやがって」
「言っておくけど、きっかけのひとつはバルトだよ」
「はん? 俺?」
「覚えていない? 何しに来たんだろうって言ったんだよ、ニーベルングに対して。生き物なんだから目的や理由があるだろうって。……そういう当たり前の疑問を、グングニルは持たないようにしている。明らかに、作為的に」
「サクヤ」
 これ以上はいくらなんでもまずい、という懸念が、バルトの声をこわばらせた。壁に耳あり障子に目あり、大浴場にスパイありかもしれない。が、サクヤは湯舟から上がりながらも、なお話を続ける。
「僕らはニーベルングに対して無知すぎる。この5年で明らかになった新たな事実はごくわずかだ。……その割にグングニルの対応は、初期の段階から一貫して“出来すぎて”いる。未知の脅威に対して、ここまで大きな失敗なくやってこれていること自体、奇跡的だよ。その奇跡には裏がある。少なくとも、僕らが知らない何かをグングニルは知っている。ほら、気になるだろ?」
「だろって言われてもな……。わざわざそんな危ない橋を全力疾走するような……」
「全力疾走するのは僕だ。ただ手助けがほしい。そういうわけだから人選に妥協するつもりはない。バルトには絶対に八番隊に入ってもらう」
 鍛え上げられた背中が有無を言わせない。一見して、誰かの手助けを必要としているようには思えない、バランスのとれた筋量、経験値、自信とそれを裏打ちする圧倒的能力値。誰もが羨むものを持ち合わせながら、その実、誰もが持ち合わせているものが欠けているような不自由さがサクヤにはあった。出会ったころからその印象だけは変わらない。
「俺は、守るべきものが守れれば立場や場所は特にこだわらない主義だ。子供たちの未来とか、仲間の命とか、愛する家族とか……いや、まあ最後は見栄だけどな。お前さんの、その不器用極まりない生き方は、守ってやりたいと思うもののひとつではある」
 バルトも立ち上がって右手を差し出した。
「俺で良ければ、力になろう。言っておくが同情したわけじゃない。……あんたと一緒に行けば、俺も新しい景色が見られると思うからだ。改めて言うようなことでもないんだが、俺がグングニルに転籍したのは、あんたに会ったからだしな」
 頭から爪先まで完全無防備な状態で差し出された右手を、サクヤもしっかりと握り返した。
と、今の今まで辺りに立ち込めて、隠すべきところを具合よく誤魔化してくれていた湯気が突如として掻き消える。扉を開け放つ音とともに、外気が勢いよく流れ込んできた。
「お客さーん? ごゆっくりとは言ったけど、閉店時間過ぎちゃってるからー。……あらやだ何やってんの」
「何やってんだはこっちの台詞だ! 男湯を断りもなく開け放つ店員があるか!」
 あるのだ。この女は、時にこれをやる。そういう肝の据わり方だから、この色街界隈で堂々と営業ができるのである。固く交し合った握手は僅か1秒で終了。二人は今更だとは思いつつ、開けた視界の中ですごすごと腰を落とし、湯の中に消えた。