extra edition#7 靴はなくてもワルツは踊れる


 サクヤの評価が詐欺師に対するそれみたくなってきたところで、バルトが急にしどろもどろになる。それを見て、アンジェリカは珍しく声を出して笑った。
「バルト少尉は、優しい人ですね」
「なんでいきなりそうなる」
「別にいきなりってわけじゃありません。折に触れてそう思いますよ。あたりはぶっきらぼうですけど。サクヤさんもそういうところに惹かれて、あなたを誘っているのかもしれないですね」
「お……ばっ、……適当なこと言うなよっ」
「サクヤさん、言ってましたよ。バルト少尉がいれば、隊の仲間は誰も死なずに済むって。自分が行き詰ったときに助けになってくれるはずだからって」
「それこそ、おためごかしだろう」
 そう言いながらも、バルトの表情はまんざらでもなさそうだ。アンジェリカの胸中では、これは陥落もそう遠い話ではないかもしれないと安堵が広がる。と、同時に疑問がわいた。
「逆に、なぜ“保留”なんです? 今までの話だと、バルト少尉はサクヤさんのこと、嫌っているわけではないでしょう?」
 アンジェリカの疑問はもっともだ。バルトは別段、件の男のことが嫌いというわけではない。割合からするとむしろ好ましい青年だと昔から思っている。だからこそ、気になっていることがあった。実を言えば、そのしこりの正体がずっと掴めずに、バルト自身も煮え切れない気持ちを抱えていたのだ。それがアンジェリカと話しているうちに輪郭を確かにした。
「奴は俺に何か、隠している」
 アンジェリカにとりわけ目立った反応は無い。それがバルトにとっては、ひとつ、答えになっていた。
「言い方の問題かもしれないが、隠しているというより、積極的には話すつもりのない何かを持っている。……アンジェリカ、あんたはそれを知ってるな?」
「……私の口からはなんとも」
 答えはそれで十分だった。バルトは、自分が感じていた微小なしこりが気のせいでないことを知るだけで良かった。
 他人に話せない事案など、大なり小なり誰にだってある。社会規範に違反するものかもしれないし、倫理や道徳から外れたものかもしれない。単に、一般的でないという理由で人目をはばかることもある。しかし、サクヤが抱えているらしいそれは、どうもどれにも当てはまらないような気がしている。
 バルトは、整体治療と茶の礼を簡単に済ませて、医務室を後にした。考える場所と時間が必要だ。どう仕掛けるか、それとも仕掛けないのか。いずれにせよ彼は、彼の立場と態度をはっきりとさせておかねばならなかった。
 自然に足は兵舎とは逆方向に向いていた。


 グングニル本部塔が聳え立つ、中央第二主都であるグラスハイムの外れ、街が寝静まってから賑わいはじめる一画がある。狭い路地の両側に連なる店からは色とりどりの明かりと華やいだ男女の声が漏れていた。グングニルの塔から近すぎるせいか、見知った顔はない。この界隈を利用するのは専ら貿易商や財政会のお偉方、ギャンブルに大勝した羽振りの良い連中など、一夜の夢に酔える限られた者だけだ。
「あらバルトさん、いらっしゃい。閉店ぎりぎりよ? ねらってきたの?」
 通りに面したカウンターで頬杖をついていた若い女。にぎわう路地をマイペースに歩いてくるバルトの姿を目にして愛想よく笑って見せた。見知った顔といえば、おそらくこの女だけ。
「そういうわけじゃないんだけどな。ひょっとして貸し切りか?」
「残念。ちょっと前にお客さんいれちゃった。まぁでも、今はその人だけだから閉店までは仲良くごゆっくり?」
「何がごゆっくりだよ」
 苦笑しながら、バルトは慣れた手つきで女に硬貨を渡した。女の軽い口調と会話とは裏腹に、その店の入り口は妙に格調高い重厚な扉で仕切られていた。それも慣れた手つきで押し開ける。中は静かで暖かい。湯気が視界を一瞬遮って、すぐに晴れる。
 バルトが憩いのために通い詰めるこの場所は、色街の奥で我関せずと営業している異色で骨太な大浴場だ。遅い時間は貸し切り同然で、とりとめのない課題を考える場としては最適解だといえた。
 深々と嘆息。無造作に衣服を脱ぐと、生まれたままの格好でのしのしと行進し、湯の海へ身体を沈めた。身も心も芯からほぐれていく。再び腹の底から息をついた矢先のことだった。
「あれ? バルト。奇遇だね?」
 先客とやらが、随分と親しげに声をかけてきた。その声を、湯気で幻想的に曇ったその姿を認識するやいなや、バルトは思わず目を丸くした。噂をすれば何とやらである。
「何が奇遇だよ。まさか張り込んでたんじゃねえだろうな?」
「そうだとしたらさすがに場所はもう少し選ぶよ。そんなにあからさまにうんざりされるほど付きまとったつもりはないんだけどなぁ」
「よく言うぜ。新興宗教の勧誘でも、あんたほど熱心につきまとってはこねえよ」
 冗談のつもりで返したが、十分にありうることだった。そう思えるほどに、この数週間のサクヤ・スタンフォードの献身は凄まじかった。会議中も作戦中も食事中もお構いなしにバルトに猛攻をしかけてくる。ここでの待ち伏せがその一環だとしても、もはや何ら不思議はない。
 ミーミルの出会いから三年、バルトがグングニルに入隊してからは二年、その間にサクヤは順当に階級を上げ、今や新設部隊の隊長に抜擢されるような立場だ。そして自分は、そのサクヤ率いる小隊に全力で勧誘されている。
「ここはグングニル関係者が使わないことが知れてるから、たまに利用するんだけど、まさかバルトが常連だったとはね」
「そりゃこっちの台詞だ。……まあ、今回に限っては、ちょうど良かったのかもしれねえな。
お前さんに二、三、聞いてみたいことがある」
「バルトが僕に? 珍しいね」
 サクヤがバルトを待ち伏せるためにここへ来たのではないとすれば、十中八九一日の疲労を癒すためだ。バルトの話題は少なからずその邪魔をすることになる。分かっていたから妙な緊張感があった。生唾をのむと、バルトはゆっくり言葉を吐き出した。
「あんた、何か大事なことを隠してるだろう?」
「え? ああ、ニブル病のこと?」
 バルトがすべて語りつくす前に、フライング気味に答えが返ってきた。それはもう随分と軽快に、あっけらかんとである。おかげで一瞬呼吸が止まる。二の句がつけずにそのまま馬鹿みたいに口を半開きにしていた。
「ごめん。隠してたつもりはこれっぽっちもないんだけど、特に話すタイミングもなかったからね。アンジェリカから何か聞いたかい?」
「……アンジェリカが話すわけないだろう。俺が勝手に──。いや、ちょっと、待ってくれ。展開がおかしい。ニブル病だと? 発症してるってのか?」
「消化器官の一部が炭化してる」
 待ってくれといったはずが、サクヤはやはり躊躇した様子もなく、間髪入れずに答えてくる。その言葉に重量はない。しかし無色透明というわけでもない。読解は困難を極めた。
 バルトは反応に窮した。当然だ。こういう流れは予想だにしていなかったし、その展開の真っ只中にありながら悲壮感が一切漂わないのも妙だ。漂っているのは、大量の湯気とほのかに石鹸の香り、そしてゆったりとした時間。
「それが本当なら、なんで新設部隊だの隊員選抜だのと訳の分からないことになってんだ。他にもっとこう、あるだろ。やるべきことが」
「静養とか?」
「そう、それだよ。静養とか」
 バルトは混乱している。混乱しているから、サクヤが返す特に考えられていない単語にもやすやすと飛びついてしまう。サクヤの苦笑を数秒眺めて、ようやくその表情の意味するところに思い当たる始末だ。