extra edition#9 吊られた男のクロッキー【Ⅰ】



 身体は毎日それなりに疲労していて、ひとたびベッドに横たわればそれだけで労せず眠ることはできた。意識が閉じられ、無意識が目を覚ます。その無意識とやらが、どこまでも性根が悪く厄介な存在だった。主導権を握るなりやりたい放題の好き勝手。睡眠時間のほとんどは胸糞の悪い夢で塗りつぶされた。幸か不幸か、夢の内容は朝になるとこれっぽっちも覚えていない。どこまでも夢らしい夢だ。そのくせ、ろくでもない夢だったということだけは分かる。わけのわからない吐き気と動悸は毎朝のことで、ひどいときにはぼろぼろ泣きながら跳ね起きたりもする。
 こんなことを連日飽きもせず繰り返すものだから、目覚めた瞬間が一日で一番疲れ果てている時間になった。「目覚める」という言葉自体がどこか空々しい。朝が来て、身体が活動して、夜がくる、この覚醒している時間のほうが圧倒的に無感動だ。もしかしたら、自分はあのろくでもない夢の中のほうが「生きている」のかもしれない、などと考えることもある。そうだったとして、夢の中に逃げ込もうとも思えない。無感動は無感動なりに、現実ではやるべきことが相当数ある。とりわけ今の時期は、哲学的な観点から見て自分が生きていようが死んでいようが、そんなことを悠長に考えている余裕はない。
 シグが籍を置く中部第一支部は、居を構えるミドガルド地区の治安維持は無論のこと、防衛ラインの守備から、激戦区と化しているヨトゥン地区の攻防、その主要都市であるウトガルドにおける市街戦まで、その任務は大規模かつ広範囲にわたる。グングニル西部支部が壊滅して以降は名実ともに前線基地として機能しており、中央区のような平穏とは無縁の日々が約束された場所である。身も蓋もなく簡単に言うと、常に忙しい。
 様々な作戦が各隊同時並行で進められているのが常だが、半期に一度は全隊総動員、これに本部二番隊を加えての大規模殲滅作戦を実施する。その第一週がようやく終わろうとしている、というのが今現在の中部第一支部なのである。
 この掃討戦に、グングニル機関が自身の沽券をかけているのは間違いない。エリート部隊と呼ばれる二番隊全隊を惜しみなく投入することからも察しのとおり、人材も予算も機材も時間もありったけをこの作戦に費やす。その支払った対価分はきっちりと戦果をあげ、世間の信頼と支持を獲得する。


「全隊撤退! ブラックウェル大佐から撤退命令だ!」
 先刻から小雨が視界を遮るようになっていた。昼を過ぎたあたりから、時間の感覚が徐々に薄れ始め、今が夕方なのか夜に近いのかも分からない。空を覆う暗雲と、その雲に擬態でもしているのか同色の有翼種が無秩序に飛び交っている。癪に障る光景だった。奴らは劣勢になったなら、魔ガンの射程距離から外れた遥か上空になりふり構わず逃げればいい。そして安全圏からああやって煽っていれば、大した敗北感も持たず戦闘を離脱することができる。
(こっちは撤退時も命からがらだってのに)
 シグは天を仰ぐのをやめ、犬のように一度大きくかぶりを振ると前髪を伝っていた水滴を一掃した。雨粒が邪魔だ。ぬかるんだ地面が、霞がかった視界が、感覚を鈍らせる冷気が、鬱陶しい。こういう演出は心底腹立たしいと思う。このバッドコンディションのせいで、死ななくていい奴も死んだ。
(俺の班は……ウトガルドに向かう最短ルート、で撤退)
 反芻して気持ちを切り替えた。撤退命令からその行動の完了までに、言わばエピローグみたいなこの時間に、また誰かは死ぬ。それが自分でない保証はなかったから、他人の心配をしている場合ではない。
 殿(しんがり)を任された本部二番隊の隊員を残して、大多数の隊員たちが踵を返し始めていた。ここからの応戦は最低限、自分の身を守るために、退路を開くために魔ガンを撃つだけでいい。
「お、おい! あそこ! イーグル……だろうけど、でかいぞ……!」
 誰かの声で、シグもその姿を捕捉してしまった。
 振り向いたその先、戦場とは少し距離を置いたところで首から血を流すニーベルングが佇んでいた。おそらく戦闘中に数発の魔弾をくらったにも関わらず、いずれも致命傷に至らなかったのだろう。その長い首の付け根からは、未だ新しい黒煙があがっていた。
 聞こえたとおり、単にイーグル級とするには巨体だった。いや、折り曲げている首が妙に長いせいでそう見えるのかもしれない。
 シグがそうしていたように、そのニーベルングも明らかにこちらを捕捉していた。だからおそらく条件反射で魔ガンを構えた。一連の動作がすべて脊髄判断だとしても、このときこの瞬間、この距離ならおそらくとどめはさせた。引き金にかけた指は、上官の強張った声で、これまた条件反射で静止した。
「エヴァンス! 撤退命令だ! そいつはもういい、時期に沈黙する!」
(時期にって、別に致命傷ってわけでもないのに)
 反論が喉元まででかかって、これもまた、条件反射で呑み込んだ。シグは構えた魔ガンは下ろしながらも視線だけは何故か逸らせず、そのまま数秒間ニーベルングを凝視した。ニーベルングも同じようにシグをただ見ていた。が、しばらくすると、その長い首を振り子のように揺らして、羽ばたくことなく踵を返した。
 シグの周囲はやけに静かだった。交戦は未だ続いていたから魔ガンの音はひっきりなしに聞こえていたし、仲間の怒号も悲鳴も、ニーベルングの雄叫びも、変わらず耳をかすめていたはずだが、同時にそれらは波がひくように遠くに聞こえてもいた。
 パシャッ! ──そしてすぐ耳元で、現実味を帯びて聞こえる足音。水気をたっぷりと吸った地面を、躊躇いなく踏みしめる力強い音。それを認識した直後、シグの視界を猛スピードで駆け抜ける人影に我に返らざるを得なかった。目を疑う。人影は、脇目もふらず全速力で先刻のニーベルングを追いかける。
「ちょっ……! なんだあれ、撤退命令──」
 ──が聞こえていないはずはない。から、おそらく意図的に無視している。それは控えめに言ってかなり重罪だ。そういうことが後付けで脳裏をよぎったが、シグの足は既に人影の背中を追っていた。本気で追うしかなかった。ニーベルングはさることながら、この命令無視男の走りが尋常ではない速さだった。
「少尉! ……スタンフォード少尉! 撤退命令ですっ」
 シグの記憶が間違っていなければ、確かそういう名前と階級の二番隊エースのはずだ。言いながら一瞬、この男が何か指示に対する特権を持っている可能性とやらも考えてはみたが、それはおそらくない。そんなものがあるなら、はるか後方で別の二番隊員が血管がはちきれんばかりに怒声をあげる必要がないはずだ。
 とんでもないスピードで走りながら、サクヤは器用に振り向いて、一応シグの姿を視界に収めたようだった。そして何でもないことのように落ち着いた口調で言葉をかける。
「あれは仕留めないとだめだよ。えーと、ああ、エヴァンス曹長! ちょうどよかった、君がいれば百人力」
「いや、まずいですよ……! 完全に退路と逆方向です」
 見れば分かる事実を口に出すことの悲しさといったらない。十中八九、サクヤも分かっている。分かっていてこの躊躇の無さは異常だ。かと思うといきなり、ぬかるんだ地面に両足を踏ん張って、射撃のお手本のような美しいフォームで魔ガンを前方に構えた。
「ぎりぎりだな! 足止め可能か? 文字通りの!」
「──できます。……いや、できます、けど」
 口から出ていく言葉と、脳内で紡がれるそれ、そして実際とった行動がてんでばらばらだった。シグは割と分かりやすく怪訝アピールをしたつもりだったが、そのすべてが不発に終わる。サクヤはすでに一撃必中の態勢をとっていた。それを視界に入れたせいで、やはり条件反射で身体のほうが勝手に動いていた。
 疑問符は浮かべたまま、シグは両手に握った二丁の魔ガンで俊敏極まりないニーベルングの足に八発の魔弾を撃ち込んだ。正確には左足と右足に、それぞれ綺麗に四発ずつ。もう少し、自負も込めて正確に言うなら各二発はニーベルングが体重を支えるのに使う足の端にある爪を撃った。結果として即座に体勢を崩してくれたから、狙い通り着弾したのだと思う。次の瞬間、ニーベルングの首はちぎれて宙を舞っていた。それだけで別個の生き物みたく、ひとしきりしなった後で重力に従って無造作に落ちた。