「……さて。撤退命令が出たんだったっけ。戻ろうか」
シグは生返事を返した。不確かな記憶だが、かろうじて返事はした。とにかくこの作戦中、自分はほとんど脳を介さずして判断して行動している。そのツケが一週間分まとめてやってきたと考えるしかない。疲労と睡眠不足のせいだったとして、それが根本的に改善される見込みはないから、反省のしようもない。
何でもいいから休養を摂ることにした。睡眠でなくてもいい。ニブルまみれの濡れた身体を温めて、少量でいいから食事を摂り、身体をベッドに預けるだけで今日のこのざまよりはマシになるはずだ。そうして少し脳が稼働しはじめたら、今日の出来事をじっくり考えたいと思った。
全隊が撤退完了したのは、午後5時を回るか回らないかの時刻で、雨は止んだものの空はやはりぐずぐずと色彩のない雲を敷き詰めたままでいた。そのせいか夕刻、という感覚が薄い。疲れ果てて起きるいつもの朝のようでもあったし、そのまま一日を終えた深夜のようでもあった。五体満足でこうして基地に戻ってきたというのは喜ぶべきことなのだろうが、それさえも実感の薄い感動になりさがっていた。
シグが欠伸交じりに歩を進めるこの廊下の先には、20の個室を備えたシャワールームと倉庫に等しいさびれた資料室がある。同じ区画内に仮眠室と小規模のサロンもある。どこへ行っても人だらけで落ち着かない中部第一支部の敷地内で、この区画だけは静寂を保とうという隊員たちの暗黙の了解がうかがえた。元気があって騒ぎたい奴は、他の棟にあるもう少し大きなサロンに足を運ぶ。シャワールームにしたって、演習場に隣接しているもののほうが広いし、大浴場とサウナも完備されているのだから、誰かと盛大に労い合いたければそっちへ行けばいい。
シグは、自分なりに考えた休息プランを珍しく順調にこなし、ただ単に横になるために仮眠室を目指して歩いていた。あわよくば睡眠を摂りたいとも思ったが、欲張るとろくなことにならない。確実に、堅実な方を採ることにした。
人目も憚らずに欠伸をしたところ、ぼやけた視界に見覚えのある背中が映る。
「あ、れ。スタンフォード……少尉」
半信半疑で呼びかけたが、振り向いたその顔で本人であることを確認すると、一瞬考えた末に敬礼することにした。こういうことほど反射的に行うべきだが、そうはできない自分にまた少しの疲労感を覚える。
「シャワールームですか。こっちもまだ混んでるみたいですが」
「いや、もう済ませたよ。おかげさまで撤退完了まではかなりスムーズに進められたからね。それはそうと、さっきは助かったよ。流石は音に聞くシグ・エヴァンス曹長。腕前は噂以上だった」
「あー……はぁ、まぁ、あのときは成り行き任せだったんで、何が何だかってかんじですが」
互いに、個人的に話したのはこれが初めて(もちろん先刻の作戦中の、幾分間の外れたやりとりを除けばの話)であった。それはそれとして、当然互いのことは知っている。本部二番隊所属の隊員情報は否が応でも耳に入ってくるし、所属抜きにしてもサクヤ・スタンフォードは多方面で良くも悪くも有名だ。シグ自身の知名度については、自分ではよく分からない。知らない人間が、自分の顔と名前と戦績と成績をつぶさに知っていることが往々にしてある、というあまり面白くない事実だけは把握しているが。
「噂と言えば……。スタンフォード少尉のほうは、噂とはずいぶん違うというか……」
声をかけてしまった手前、何か話題を振らなければという意識が一応働いた。ただ、これも少し考えると随分不躾だったという気もする。
サクヤは「噂」という単語に分かりやすく反応を見せた。
「噂というと大抵は尾鰭がついて出回っているものだけど、どうも僕の場合は割と事実が事実のまま拡散されているみたいで……。一応聞いても?」
「討伐対象を逃がしたりするって聞いたことがあったんで……てっきり『殲滅』にこだわりがない人なのかと」
「ああ、それは別に間違ってない。『殲滅』は無理だからね。亀裂の向こうからニーベルングは次々と這い出てくるうえに、僕らは向こう側を把握できていない。パワーワードであることは認めるけど、実質的な意味を考えると空理空論でしかない」
シグは鳩が豆鉄砲をくったようになって、言葉を失った。あまりにあけすけすぎる。
「それは……そうなんでしょうけど」
噂と、というよりそれによってこちらが勝手に作り上げた虚像と、実像とが食い違っているのかもしれない。思っていたより現実主義者だ。かと言って極端な諦念を抱いているわけでもなさそうである。
「だったら、今回はなぜ無理をして討伐を? あのニーベルングは敗走を始めていたわけですから、危険度も優先順位も低かった」
気分屋でないことだけは分かっている。サクヤはあのとき「あれは仕留めないとだめだ」と言った。「殲滅」にこだわりがないのなら、別の何かに極めてこだわりがあると考えるのが普通だろう。
シグの質問は、他愛のない世間話の延長のつもりで、単純明快な好奇心からくるものだった。だから実は特に意味のない行動だったとしても構わなかったし、適当に誤魔化されたとしても深追いするつもりはなかった。なかったのだが、サクヤはやけに気まずそうに唸り声をあげる。これではシグも、気にせざるをえなくなる。
「理由はこう……あるにはあるんだけど。壁の薄い場所でこの手の話をしないように方々から釘を刺されていて、ね。いずれにせよ極めて個人的な基準だから、まぁ気にしないでもらえると」
(いや、嘘だろ。煽ってるとしか思えないんだけど)
壁の薄い場所ではできない、おそらく上官からも口止めされているような危険思想なのだろうか。サクヤはばつが悪そうに苦笑いしているが、それがより一層こちらの興味を掻き立てる。
「そうだ。逆に君は、なぜ討伐すべきだと? さっき自分でも危険度、優先順位は低いって」
「いや、俺はあなたを追いかけただけで──」
「でも撤退命令がなければ、君は単騎であのニーベルングを討っていただろう?」
また言葉を失った。サクヤの今回の行動はどうやら恣意的なものではなく、シグの判断ありきでなされたものらしい。観察されていたことも相まって、にわかに警戒心がわいた。今度はこちらが、慎重に言葉を選ぶべきかもしれない。
「なぜって質問はおかしいでしょう。グングニルはニーベルングを殲滅するための組織で、俺はその理念に準じているだけの話です。討伐できないわけでも、しづらいわけでもなかった」
そのときその瞬間に、討伐できるならすべきである。支障がないのならなおのこと──今回は、たまたま「その瞬間」に撤退命令が下るという支障があったに過ぎない。優先順位はそれで自ずと下げられた。
シグが知りたかったのは、それでもなお優先順位を最上位に引き上げたサクヤの行動指針だ。
「そうか、そうだね。すまない。妙なことを聞いてしまった」
それでまた、ばつが悪そうに笑ってあっさりと引き下がる。言葉とは裏腹に納得はしていない様子だ。それはそうだろう、シグは用意された教科書通りの回答をこれみよがしに読み上げただけなのだから。こういうのはだいたい非の打ちどころがないように作られている。外側だけきれいにデコレーションされた、中身がすかすかのパンケーキみたいに。
「いえ、俺も、出過ぎた質問でした」
そしてこういうのはだいたい、頭の悪い奴が理論武装に好んで使う。不本意ながらシグには自覚があった。そもそもの性能がどうかはこの際おいておいて、脳は考えるという機能を完全に失している。
──寝よう。ここ数か月で一番固い決意を胸に秘めた。話を切りたくて、仮眠室が並ぶ廊下に目をやったちょうどそのときだった。
「おい」
後方から必要以上に冷めた声。覚えはないが、何かしらを見咎められたのかと思って今度は反射的に敬礼できた。