ACT.10 カウントダウン ゼロ


  波はその日も穏やかだった。その音を聞き、水平線よりも遥か向こうを見据え、アイラは岬に立っていた。傍らにある木は青々とした 葉を茂らせているものの今よりもまだ貧しい力強さだ。
「アイラさんはその場所がお気に入りのようだね。海が良く見えるだろう?私もその場所は好きなんだよ」
同じように海を眺めに来た大爺さんが後ろから語りかける。いつもなら微笑してそれで終わりのやりとりなのだがその日は何かが違った。 隣で呑気に深呼吸をかます老人をアイラは罪悪感いっぱいの目で見やる。
「ここは……大陸に一番近い気がする。……私は、取り返しのつかない過ちを犯してしまったんです。ここはそれを私に知らしめる」
「誰もアイラさんの昔を責めたりはせんよ」
「……ブレイマーを生んだんです、私。この、お腹から。ブレイマーを……生んでしまった」
 何でもない振りが時として非常に難易度の高い技になることを大爺さんは知っていた。驚愕を押し隠すためにひたすら海を見続けた。 話を差し止めるでもなく、また促すわけでもない。しかしアイラは続けた。
「この島には、逃げてきたんです。もう耐えられなかった……!“ブレイマーを生んだ女”は魔女でしかない。親も友人も、兄弟も私を 見捨てた。逃げるしかなかった……もう大陸(あそこ)にはいられなかった……」
胸の内を吐き出す度に大粒の涙が零れる。流石に大爺さんも聞き流しているふりをやめざるを得なかった。
  彼女がここに来た当初の傷は、今はもうほとんど消えている。あれは大陸の人々から迫害を受けたためであろう、今になってようやく そんなことを理解する。
「子どもがブレイマーなど……。何故そのようなことに……」
「……私の夫は、結婚してすぐに病気で亡くなりました。本当に、愛していました。すぐに私も死のうと思ったのに……彼はもう一度私の 前に現れたんです。私にはすぐに分かった……!嬉しくて嬉しくて……他の事はどうでも良かった。例え殺されても、それでも良かった」
「ちょっ、ちょっと待ちなさい……っ。何を言って……」
そんなことがあるわけがない、かつてブレイマーを研究した一学者として大爺さんは胸中で全力でそれを否定した。認めれば全ての定説 が覆る。第一ブレイマーの存在がとてつもなく高位なものになってしまう。
「……ある日街を襲ったブレイマー……私を殺しに来てくれたんだと思いました。でも違った。そのブレイマーは……私の最愛の夫だった。 姿かたちは違っても私には分かった。間違うはずがないっ、彼も私を殺そうとはしなかった」
「馬鹿な……!契ったのかそのブレイマーと……!」
この女は狂っている―内心そう思っていた。ブレイマーを、人を喰い街を容易に壊滅させることができるあの怪物を躊躇うことなく彼 などと呼ぶ。挙句、大爺さんの問にも頷く始末だ。
  今までの研究で、ブレイマーに生殖能力があるなどということは一度なりとも論に上がらなかった。クレーター付近でアメーバのよう に増殖する程度で固定されていたからである。
「夫との子供を授かった。けれど……ブレイマーの子供であることに変わりはない。悪魔の子……、殺して私も死のうと思った……!でもでき なかったの!自分の子供を殺すなんて……!だから置いてきた。一人ぼっちにして、置き去りにしてきたんです。私の目の届かぬところで 死んでくれるように……」
「なんと惨いことを……」
全てを信用したわけではない。ブレイマーが死者の蘇りであるなど妄想に過ぎない。確証がどこにもない。しかしこの女が気が狂っている のでないとすれば、ブレイマーと契り、その子供を産んだということは事実である。正気の沙汰ではない。しかしその子供もおそらくは 死んでいるだろう。汚染され荒れきった世界でたった一人で生きていくなど、不可能である。

  舞台は現在の大爺さん宅に戻る。話を唖然として聞き最初のように合いの手を入れる者もいつしかいなくなっていた。レキはやはり ストローだけを口にくわえて弄んでいる。
「……それから亡くなるまで毎日毎日あの岬へ行って懺悔をしておったよ。どこまでが事実かは私にはわからん。……もはや分かりたくも なかったしな」
ブレイマーの姿とあの血生臭い光景を交互に思い出して、ジェイは口をへの字に曲げて想像をそこでシャットアウトした。
  皆思い思いにブレイマーと、その子供と、それを産んだ女のことを考える。全てが事実という仮定の上に話をするなら、三者のどれを とっても気の毒なことは確かだ。重く、長い沈黙が広がる。シオのペンの音もしない完全なる静寂だ、胸中だけの言葉が渦巻いている。
  と、レキが前触れもなく立ち上がる。
「その話が本当なら面倒かもな。……死んだ人間の蘇りってことは幽霊か……ゾンビってことだろ?あれだけの数成仏させるってのはどう かと思うぜ」
「そもそも死んだ人間みんなブレイマーになんのか?そこに何か条件とか、特別な何かが必要じゃないのかな」
レキの切り出しにハルが便乗して疑問を口に出す。
「あったとしても大した条件じゃねえな。でなきゃあれだけ増えるわけねえんだ。……降り出しに戻る、だな」
エースの言い草は遠まわしに無駄足だったことを匂わせる。シオが極端に落ち込むも、誰もフォローしない、しようがない。沈黙時より も重い空気が漂い始め、流れを断ち切ろうとジェイが場違いに声を張り上げた。
「でもさ、そのアイラって女のハッタリってこともあるんだろ?調べてからでも遅くなくない?」
「どうやって?ブレイマー集めてこの中に家族はいますかとでも全国聞いて回るつもり?無理よ」
フォローどころかダメ押しが容赦なくたたみかける。再び沈黙、かと思いきや大爺さんが何か思い出したようで、軽く握った拳を左の 手のひらに打ち付ける。なるほどっ、だとか、そうかっ、だとかのあの仕草だ、いささか古臭い動作だが一番分かりやすい。
「ルビィがどうとか言っておったな。かなり昔の話になるがそういうのを研究しておった科学者がおったと聞いたことがあるぞ」
全員の頭上にびっくりマークが激しく飛び出した、ような気がした。早くそれを言えと言わんばかりの歪んだ顔をさらしながらも何人 かは苛立ちを制していた。
「本当か?どっちかってーとそっちが聞きてぇな、真実味もそっちのがあるしな」
今更シオへのフォロー、エースの意味深な目くばせにシオも必至で頷く。やる気を復活させて急いでメモにペンを走らせた。
《科学者の居場所分かりますか?どこに住んでいるか》
「おいおい、随分前の話じゃと言ったじゃろう。とっくの昔に亡くなっておるよ」
「どっちだよもう……」
一同、呼吸を合わせて落胆。なかなか息の合った溜息である。ぬか喜びもこう連続すると心臓に悪そうだ。極端な反応を繰り返す連中に 大爺さんも呆れながら再び小槌をたたいた。
「もしかするとラボだけは残っているかもしれんな。家族なども住んでおるかもしれん」
また派手に、びっくりマークが発射される。大爺さんが何か口にする度に一喜一憂していては身がもたない。期待の眼差しに混ざって、 苛立ちの視線が大爺さんに向けられた。後者を代表してエースが軽く地団太を踏む。
「だからそれを早く言えよ!で、どこだ?どこに研究所がある?」
「ええと、ちょっと待ちなされ……確か」
固唾をのんで見守る一同、対して大爺さんはひたすらマイペースに記憶を辿る。
「おお!学会の住所録に載っとった気がするな。ええと……どこにしまったかな」
おもむろに立ち上がって奥の物置の扉を開ける。ぶつくさと独りごちながらやはりマイペースに中を物色しはじめた。
  数十分はレキたちもその場で待った。しびれをきらしたジェイが様子を見に行くと、いろいろな物を床の上にとっ散らかしてうんうん 呻っている大爺さんがいた。