ACT.14 ブラックボックス


  眉を顰めたかと思うと、それより早く胃液がこみ上げてきた。これ見よがしに鳩尾に蹴りを入れられよろめくと、そのまま頭上から 振り下ろされた両拳の重圧に負けて頭から倒れ込む。胃液は引っ込んだが、脳味噌がぐらぐら揺れた。
「馬鹿じゃないの?」
蹴られた胃より、打った頭より顎が痛い。レキは眼球を下方に向けて、ローズを見上げるしかできなかった。喉元には彼女のハンドガン がめり込んでいて、身を起こそうにもこの状況で馬乗りになられては自由に動かせるのは眼球くらいのものだ。
  確かに滑稽かもしれない。レキは動じず、ただローズを見つめた。
「いつまで図々しく乗ってんだよ。さっさと撃てばいいだろ」
「図々しいのはどっちよ。指図しないで。撃っても、撃たなくても……死ぬんなら同じでしょ」
ローズは込めた力を緩めたりはしない。ただ照準を喉元から胸部へ、ゆっくり、こすりつけるようにスライドさせた。これでレキは 楽に喋ることができる、なのに黙っていた。ローズの次の言葉を待っている自分と、耳を塞ぎたい自分、相反する本心がレキを混乱 させた。
  ここからは全て、仮定の話だ。もしも、ローズがシバについたことに別の理由があったら。もしも、今ルビィを持っていることに別の 理由があったら。もしも“あの時”、レキの問にローズが頷いていたとしたら。そして、もしその全てをレキが知っていたら。
「あたし、全部知ってた」
その言葉が何を意味しているか、聞かなくても分かる。そして聞いてしまったら、それこそ馬鹿だ。
「全部知ってたよ、あんたのこと」
ローズの、“ユウ”の声がたたみかける。
  聞いてしまったら最後、今まで誤魔化し続けてきたもの隠し通してきたもの、ついた嘘、殺した気持ち、全てが無駄になる。分かって いたのに、レキは聞かずにはいられなかった。もう一度、あの日と同じ質問を。
「……読んだのか?」
思い出すのはユウの叱られた子どものような顔、それが今また目の前にあった。小さく頷く。
「ごめん。……ごめんね、レキ。知らない振りして。嘘ついて」
ともすれば銃声さえかき消す強風は、この至近距離では役立たず以外の何でもなかった。はっきり聞こえるユウの一言一言を、もはや 無かったことにはできない。互いが知らない振りをしていたから隣に居れた、そして互いが真実をぶちまけあった今、生まれたのは どうしようもない切なさだけだ。
「あんたが半分ブレイマーだって、それを自分で知ってるから……あたしを好きになってはくれないんだって、分かってたよあの日から。 ずっと一緒にいたけどすごく遠かったよね、あたしたち。それでも一緒に居たかったんだよ、レキ」
痛い-蹴られた胃より、打った頭より、心がどうしようもなく痛い。正直もう黙らせたい一心だ、なのにユウは自分に全体重をかけた まま銃を下ろそうとしないからそれもできない。
  レキはユウの行動の真意を考えようとして、やめた。答えに辿り着くのが嫌だった。考えるのをやめる代わりに、ひとつ小さく嘆息 した。
「もう、いいよ。もう……終わりにしようぜ」
この偽りだらけの関係を-。
「最初から最後まで嘘ついてたのは俺で、ユウは悪くない。ルビィ、返せよ。俺は俺なりに……終わらせたいんだ」
ユウがゆっくりと身を起こす。レキも続いて立ち上がってユウがルビィを出すのを待った。
「……あたしが何でシバについたか、分かってんの?」
「もういいっつってんだろ、出せって。お前には何の意味も-」
「けどあんたにはある!!レキ、分かってんの!?恰好つけて、綺麗事並べて、ブレイマー消しさったら……あんたはどうなんの!? 雨が降っただけで動けなくなるあんたはどうなんのよ!!」
「ユウ!」
「何かあるかもしれない……っ、ブレイマーが、レキが幸せになれる方法……!そのためにはルビィ(これ)は必要ない!ここから投げ 捨ててしまえばもう誰もブレイマーを消せないでしょ!?」
-それが、理由。ユウがレキを敵に回してシバについた、財団側に取り入った、仲間を捨てた全ての理由。レキの最後の誤魔化しも、 ユウはあっさりうち破った。
「あたしはレキを……助けたいの!!」
  悲鳴のように喚くユウを、レキは初めて見た。真実を隠し、気持ちを隠し、そうしてでも隣に置いておきたかった彼女は全てを知って いて本物を求めていたのである。偽りの関係にすがっていたのはユウではなく、レキの方だった。それでもレキは同意を示さなかった。 固く、唇を噛みしめる。
「ルビィは、俺たちの手に負えるもんじゃない……。無かったことになんてできねぇよ。全部……」
  ユウが全てを捨てたように、レキもまたいろいろなものを捨てた。全て大事なものばかりだ、だからこそ守るには捨てる他なかった。 目の前にいる一番大事なものさえも、その気持ちもレキは捨ててきたのだ。後戻りはできない。
  後ずさるユウの間合いに、一歩踏み込んだそのとき。
「財団の回し者にブレイマーか。わざわざ固まってくれて手間が省けるな」
唐突に低い、低い声が風を切った。対応するには一足遅い、互いに気を取られてある種の緊張は欠落していたとも言えるだろう。白い 制服をずらりを引き連れたイーグルが入口付近に悠長に立っていた。すぐさまユニオン連中がレキとユウの周りを取り囲む。相手が こうも迅速だとこちらの対応もつられざるを得ない、レキは反射的にユウを自分の後方に引きずり込んでイーグルに銃を向けた。 黙っていれば勇敢なナイトだ、しかしそれは時として無謀の二文字にすり替わる。
  レキ自身もユウも知っている。構えている銃には弾が一発も残っていないことを。ハッタリを押し通すには相手が悪すぎる。それは 掴んだユウの腕に、焦りそのものとして伝わった。時間は稼げないことをレキは身を以て知っている。おそらくイーグルは躊躇せず撃つ、 それをかわせても360度取り囲まれた今の状況では何の意味も成さない。
「キャノンの見物にわざわざてっぺんまで登ってきたのかよ」
「時間稼ぎのつもりならつき合ってやる義理はない。悪いがお前のようにのうのうとブレイマーにのさばられたのでは俺の立場がない んでな」
今更取り立てて驚愕する内容ではない。地方警察で身体検査を受けたときから予想していたことだ、それでもレキは動揺を隠せず苦笑 した。こうもはっきりと他人からブレイマー呼ばわりされたのは初めてだ、弾の入っていない銃に力が入った。
  実際はもうほとんど感覚など無くなっている。銃を向けている右腕も、ユウを掴んだままの左腕も、力の揺るめ方が分からなくなって いた。
「片づけさせてもらうぞ」
正確な照準だ、合わせられている方がそんなことを思う。レキは身動きできずにいた。かわしたとして二発目は?周りのユニオンは? イーグルの口振りではユウもおそらく“仕事”の標的だ、何をどうあがいても切り抜けられる気がしない。右手は引き金を引く振りを、 左手はただユウの体温を感じるために握りしめた。
ガァン!!-イーグルの弾は強風を裂いて真っ直ぐに貫いた。無論レキの肉眼でそんなものが確認できるはずもなく、視界に入った 真っ赤な飛沫を見て単純にそう思ったに過ぎない。しかしそれとは別に映るものがある。ブロンドの、キラキラ輝く美しい髪、思わず 触れたくなるような柔らかな髪がレキの頬をくすぐった。
重い-これも至極単純な感想だ。足に力が入らず、レキはまたもや後方に倒れ込んだ。
「ユ……」
認識に、理解が追いついてくれない。普通なら叫ぶだろう名前が喉を通らず押し黙った。
 : 左手に感じていたぬくもりがない。レキの最後の記憶ではしっかりと掴んでいたはずのユウ、その左手はいつの間にか冷たいコンク リートの床にべったり貼り付いていた。
「息があるな」
足音が何ともうるさい、近づいてくるイーグルに気付いてもレキは動くことができなかった。
  舞い散ったのはレキの血ではない、ユウの美しすぎる真紅の血飛沫だった。