ACT.14 ブラックボックス


「……とりあえずこの部屋、どうにかしよう」
「そ、そうね。バケツ持ってくる……っ」
頭の中を整理するのに、この血生臭い病室を掃除することは打ってつけのような気がした。エースまでが渋々雑巾を絞り出すのだから、 ある意味やはり異様な光景ではあった。
  ハルはベッドの前まで来て、静かに眠るユウの顔を覗き込んだ。意識を取り戻す気配はない。あれだけ出血したのだからそれが自然 である。命が、鼓動が脈打っていることの方が不自然だった。シーツは血で、赤というよりは黒い水たまりを作っている。それなのに 横たわっているユウの外傷は何ひとつ無い。ハルはユウの弾痕を自分の目でしっかりと見たし、事実、ハルのジャケットも目立たない だけでその血がべったりと付いている。
  ふと、座り込んだままのジェイに視線を落とした。こちらも動く気配がない、ハルがその腕を取って立ち上がらせようと引っ張る。
「ジェイ、立てって。こうしてたって……仕方ないだろ」
よろめきながらも立ち上がるジェイ。普段は気にならない髪の毛がやけに鬱陶しく感じたが、表情を隠すには都合が良かった。視界には 点々と血の跡が残る床とハルの靴、そしてベッドに駆け寄るシオの足だけが映る。ハルもそれを目にしてベッドに視線を移した。床掃除 と違ってベットメイキングは明らかに力仕事だ、ジェイも無言のまま加わった。
「せえのっ」
男二人が死に物狂いでユウの体を持ち上げている間にシオが急いで白いシーツを敷き直す。これでやっと、ユウの周りが正常な空間に なった気がした。血溜まりの中で眠る彼女は誰がどう見ても生き物とは言い難かった。
  シオの目が赤い。理由は明確なのに誰一人として口にしない。
「シオは、知ってたの?レキのこと」
どこに誰と居ても、ハルの役回りは損なものばかりだ。慣れていたはずの自分のポジションが今だけは心底嫌なものに思えた。シオの 目からはまた大きな雫が数粒こぼれる。ハルは胸中で謝ったが口にはしなかった。一度だけ、シオは大きく首を縦に振った。
  沈黙、小さな嗚咽、誰とも合わない視線、重い空気を作り出す全ての要素がこの部屋には凝縮されている。
  コンコンッ-天の助けか、ノックの音に全員がすがるように視線をドアへ向けた。ナガヒゲがシオに手招きする。
「里長がシオを呼んどる。今後の里としての出方を会議で決めるそうじゃ、参加して欲しいと」
「そうだ……!!イレイザーキャノン……っ」
ハルが再びシオを見たとき、彼女の目にもう涙は一滴も無かった。
  ユニオンの砲撃はおそらくシオだけでなくこの里全体、そして世界が既に知っているはずだ。“会議”と称される今後の方針の決定 は無論フレイム、ハルたちにも必要なはずだ。シオが黙って病室を出ていく中で、ハルは虚ろながらも冷静なことを考えていた。
「よう。……どうっすっか、サブヘッド」
エースが簡易椅子を手繰り寄せて腰を据える。因みにエースは雑巾を絞っただけで大した重労働はこれっぽっちもしていない。
「都合のいいときだけサブヘッド扱いしやがって……。どうするも何も、俺だってまだ混乱してんだ」
「俺はパズルがはまってすっきりした感じだけどな。お前もそうじゃねえのか」
エースは何をどこまで理解しているのか、自分はそのどこまでを理解すればいいか、そしてシオはどこまで知っているのか、ハルは パズルをはめ込むのを自ら拒んでいた。混乱している方が幸せだと分かる。ジェイを見れば一目瞭然だった。
「だからレキ、雨がダメだったんだ……。大爺さんが言ってたブレイマーを生んだ女って、レキの-」
「そんなこと!」
ラヴェンダーの抑揚のない呟きに、ジェイが顔を上げた。
「どうでもいい確認だろ?レキは、いつから知ってたんだ!?何で!?……何でそんで俺は知らねぇんだよ!!何で肝心なことはいっつも 話してくれねぇんだよ、あいつ!」
「ジェイ……」
「俺……びびったけど、マジびびったけど、……話くらい、いくらだって聞いたよ……っ。レキは、レキだろ!?俺、何で何にも分かって やれてねえんだよ!くそぉ!!」
コンッコンッ-再びノックが、リズム良く響く。ドアの前にはそれはそれは気まずそうに話の中心人物が手持ちぶさたに立っていた。
「話さなかったのはお前がいちいち馬鹿正直に受け止めるからだよ、気付けっつーの……」
壁一枚隔てただけの空間で力一杯力説されれば聞こえない振りはできない。第一この部屋のドアは先刻からずっと全開だ。
「俺はだいぶ昔から知ってたし。“アイラ”はたぶん俺の母ちゃん……ってことになるんだろうな」
  ハルは昨日のことのように思い出していた。サンセットアイランドでの出来事の全てを、ハルが見て、感じた光景と想いの全てを。 彼にとってパズルの完成は同時に更なる混乱を招くだけだ。
「俺は誰にも話してねぇよ。シオも、こいつも、偶然知っただけで」
「……ローズも知ってるのか」
ハルの問に、レキが特に声も出さず何度か適当に頷く。
-レキは人を本気で好きになったことあるのか?-
-ないよ-
レキの答えはこうだった。問いつめたのは、ハルだった。
-ユウはお前が行かせたんだよ……!傷つけてんだよ!レキが!-
  混乱は思ったよりない。レキの話す内容も事実もシンプルだ、ただ感情はそうはいかない。ハルはあの日、言ってしまった。レキが 抱えていた一番重い荷物を、容赦なく殴りつけてしまった。
-お前一生、誰も愛せないよ-
レキは知っていた。ハルは-。
  選択を迫られた。用意されたものの内、どれを選び進むか。理解はきっとこの中の誰より早くしていたのである、ハルが決めかねて いたのはこの判断だけだった。そしてハルは決断した。だから真っ直ぐレキの目を見据えた。
「それでもお前がしたことは許されることじゃない。少なくとも俺は、許すつもりない」
目が合ったのはほんの一瞬、互いに示し合わせたかのようにすぐに逸らす。ハルはその間を見計らって部屋を出た。場が静まり返った のもやはり一瞬で、ドアが閉まる音と同時にエースが深々と嘆息した。
「だから……っなんでそうなるんだよっ。何でこうなるんだよ~」
「世の中にゃあ他人には分からねえいろいろが隠されてるってこったろ。残念だったな、三文芝居までしたってのに」
「芝居じゃねえ!」
派手に赤面するジェイ、ただその大立ち回りがあったからこそレキは嫌々ながらこの場に参上したのだ。その功績を差し引いて気恥ず かしいらしく、当の本人はヘルメットを取って頭を乱暴に掻く。
「レキ!」
「……おう」
気持ち悪いほど見つめられて数秒後レキは明後日の方向を見やった。男に、とりわけジェイに熱視線を送られたところで胃の上の方が 噎せ返るだけだ。
「俺はお前の味方だ。でもハルの味方もする。……これでいいだろ?何も変わらねぇ」
ヘルメットを深く、深くかぶり直す。レキはたまらず苦笑した。
「腰抜かしてびびってた奴がよく言うぜ。心配しなくても取って食やしねえから安心してろ。何も変わらねえよ」
「悪かったなっ。……レキは、レキだしな」
  ジェイは知らずにいた。面と向かってブレイマー呼ばわりされたのも初めてだったレキが、ジェイの言葉にどれだけ救われたか。自分 というあやふやな存在が、その言葉ひとつで形を成す。ジェイの悪ガキのような屈託のない笑いにつられて、レキも思わず笑みをこぼ した。苦笑いではない、安堵の笑みを。
「シオが帰って来たら俺たちも今後の対策練らねぇとな。ヘッド、ぼやぼやしてねぇでシャキッと考えとけよ。俺はそれまで煙草吸う」
エースが早々に席を立つ。先刻からどうも落ち着かずそわそわしていたのは、極度のニコチン欠乏症のためだ、エースにとっての最優先 事項は何はともあれそれが第一、トイレを我慢していた子どものように部屋を出た途端小走りに駆けていった。
「しょうがねえなぁ……エース」
「まぁエースも……エースだからな」
違いない。妙に納得して室内に残された三人は肩を竦めた。
  レキはエースが独占していた椅子をベッド際に移動させて座る。因みに室内に椅子はこれ一脚だ、だからエースのエース故の退室は レキにとっては願ったりだったのである。
「……シオ、戻って来たら知らせるわ」
「おお、悪ぃ」
ジェイはラヴェンダーに視線を送って合図すると連れだって病室を出た。ラヴェンダーがドアを閉める際に見た光景は、ジェイの行動の 補足説明のようなものだ。レキのその表情を、ラヴェンダーが目にしたのはこれが最初で、おそらく最後だ。
  まるで掴めもしない流れ星に手を伸ばす子どものように、一言で言うならただ切ないレキの表情をラヴェンダーは見て、すぐに前方を 行くジェイに視線を移す。ジェイはただ前だけを見ていた。