ACT.14 ブラックボックス


  雨降らしの里全体を灰色の雨雲が覆い隠そうとしていた。湿度の上昇は勿論だが珍しく気温の低下に気を取られる。肌寒い、シオは 薄手の上着を羽織りながら窓の外に少しだけ興味を示した。おそらく数分もすれば雨粒がぱらぱらと落ちてくるだろう、シオが話を するには都合が良かったが大して意見を述べたいわけではなかった。
  里長の家は会議を催す広さはあったが何分暗い。電灯は上から申し訳なさそうにぶら下がっていたが、わざとなのか気付かないのか 里の者は誰も明かりを求めてはいないようだ。
「大松明の見張りに誰かを。……雨が来る」
里長、ナガヒゲに負けず劣らず髭まみれの老人だ。ただナガヒゲのこびとのような身長とは打って代わってアスリート並に厳つい。 シオを先刻からちらちら見ているのは合図なのだろう、彼女にとっては圧迫以外の何でも無かったが。
「連合政府め……何も分かっちゃいないくせに馬鹿なことをしてくれたもんだ。これで数日もすればブレイマーは今までの数倍、いや 数十倍生まれるぞ。近隣の都市は絶望的だ」
「この里も安全とは言えないな。万一の場合は……里長」
里長が厳かに頷く。
  イレイザーキャノンはクレーターに命中し付近のブレイマーをほぼ壊滅状態にした。しかしそれはその場凌ぎどころかブレイマーの 発生率を高めただけの、全くの逆効果だった。
「この際仕方あるまい。里に影響が及ぶようであれば皆で協力し……雨を降らせる」
「でもそんなことをしたら財団側が……っ」
  小雨が降り始めていた。ブリッジ財団には実の姉アスカがいる。隠れ里に住むアメフラシの雨乞いを制限するための人質だ、実際 ここ数年彼らは雨乞いの儀式を一度も行っていない。
「分かっておる。里に危害が及ぶ場合に限っての話じゃ。しかしシオ、政府の自業自得とは言え暫くすれば世界各地でブレイマーに よる被害が今まで以上に多発する。その時里全体として財団側につくかどうかは……よく考えねばならん」
そのときはアスカを切る-平たく言えばそういう意味だろう。しかしシオに反論できるはずもなかった。雨を降らせばブレイマーを 溶解させることができる、つまり労せずして多くの人々をブレイマーから救うことが可能なわけだ。が、それこそが一時凌ぎでしか ないことは明白だ、根本的には何の解決にもならない。あのキャノンは、何に代えても止めなければならなかったのだ、白い光線が未 だに目蓋の裏に焼き付いて離れない。
  里の者全員が雨乞いをすれば、世界の広範囲に渡って雨を降らせることが可能だ。そこへシオが加わればより一層確実なものとなる。 そしてそれは終わりを迎えない、半永久的に繰り返されるブレイマーと人間のイタチごっこに過ぎない。
  シオは里長の家を跡にした。里の対策よりも自分がこの先どう動くか、それを決めることの方がシオにとっては意味があった。

  雨は歯切れの悪い速度で降り続けている。それは窓を睨みつけるブリッジ財団会長にとっては苛つきの原因でしかなかった。机の上の コーヒーカップを手にとって口に、つける前に床にたたきつけた。音の割に四方八方に派手に破片が飛び散る。そのまま踏みつけて入口 付近に待機していたアスカの側まで近寄ってきた。
「……まさかお前が呼んだわけじゃあるまいな、この雨」
顎先を掴まれて、アスカはただ大きくかぶりを振るしかできない。
「では里のアメフラシか?妹か?」
やはりかぶりを振る。先刻より力強く。ブリッジとて馬鹿ではないしアメフラシとのつき合いも長い。これが自然の雨であることは とっくに分かっていた。怒りの矛先の正しい位置を模索しているに過ぎない。
「ユニオン、ノーネームのクソガキ共、それに貴様の妹、どいつもこいつも邪魔しかしない……。ブレイマーが一匹残らず居なくなって みろ!財団は終わる!!世の中の馬鹿共だってブレイマーの血清がなけりゃあ困る……!!」
「その通りです会長、ハンターを総動員してブレイマー狩りを続行すべきかと……」
「ルビィだよ!!ルビィィィ!!どこに狩るブレイマーがいる!?あれが無いとブレイマーは集まらないだろうがぁぁ!!探せ!何と しても探し出せ!!」
秘書が短い返事の後逃げるように踵を返す。ブリッジの足先で残っていたコーヒーカップの欠片が粉々に砕け散った。

  どれくらいの時間そうしていたのか分からない。随分長くにも感じたし、一瞬だったような気もする。レキは特に何をするわけでも なくユウの寝顔を見続けていた。小雨が降りだしてからやたらに意識が薄弱になったのは覚えているが、今もまだ窓の外は水滴が埋め 尽くしているし大して気分が良くなってはいない。それでもいつもより苛立ちは小さく感じた。
  部屋の中が微かに紅い。しかしそれは誰それの血で、というわけではなくレキが手の中で遊ばせている石の淡い輝きのせいだった。 また、ルビィはレキの手の中に戻ってきてしまった。まるで自ら望んでレキを主に選んだかのように。
  ユウは全く意識を取り戻さない。規則的に呼吸を繰り返すだけで、目蓋は固く閉じられたままだ。長いまつげも、揺れひとつ見せない。
「ユウ……ごめんな、こんな目に遭わせて」
レキは気付けばジャケットからあの手紙を取りだしていた。しわくちゃの封筒は、更にところどころ赤い汚れが付いていた。いよいよ オンボロさが強調されてきたようだ、もはや丸暗記してしまった文面をそれでももう一度読み直すために手紙をゆっくり抜く。
  レキは思い出していた。この手紙の封を、初めて切った日のことを。母親から渡されたもの、という認識だけはあった。記憶の中の 母親はその時が最期だ、最初はよく覚えていない。この頃にはレキの中で母親自体の記憶が無くなりつつあった。だから思い出そうに も、顔も声もよく分からない。 ただ、今目の前にある手紙がその記憶をかろうじて繋ぎ止めていたに過ぎない。
  あの雪の日、言われた言葉だけははっきりと覚えている。
あなたは絶対に誰かを愛してはだめよ-幼い自分には全く理解できなかった言葉の意味を、レキはただ何かのまじないのように胸に 刻んでいた。
アイシテハダメ、アイサレルノモダメ、モシダレカヲアイシテシマッタラ-そうしたら、これを読む。
  レキはその日を迎えてしまった。少しの恐怖と緊張、それを上回る彼女、ユウへの想いが手紙へとレキを誘う。初めてユウと結ばれた 夜、レキは一夜にして最高の幸せを手に入れて、すぐさま奈落の底の底まで落ちた。理解しがたいくだりの文が便箋一杯に埋め尽くされて いる。ブレイマーの父、その間に生まれた自分、割と淡々と記されてある事実をレキは何度も何度も読み返した。もう少しまともに、 人並みに勉強などしていたらこの刃物のような文をこんなにも繰り返し読む必要はなかったのだろうか、震える手先が無意識に手紙の 端をぐしゃぐしゃにしてしまっていた。

-もしあなたが愛した人が本当に大切な人なら傷つけないために、このことを教えておく必要があったの。
どうすべきかはあなたが一番よく分かっていると思います。本当にごめんね、レキ。幸せになって。
それともう一つ、言っておかなかればならないことがあります。それは-

  息をするのを忘れていたらしく、一気にむせた。激しくせき込むと出る涙が、やけに大粒で音を立ててコンクリートの地面にしみこむ。
  ユウが本当に大切だった、だからこの手紙を開けた。そこに矛盾はひとつもない、矛盾だらけなのはこの手紙の方だ。どうすべきか、 それを実行して幸せになんかなれるわけがない。だいたい、何故よりによって『今』なのか、レキは今度は自らの意志で手紙を丸めた。 知っていたら、きっとユウを愛してしまうことなんかなかった。傷つけることも、傷つくこともなかった。
  捨てるつもりで丸めたにも関わらず、レキは呼吸を制してもう一度ゆっくりと手紙を開く。続きがあることを知っていた。それに 捨てるつもりが本気であれば破れば良いのだ、レキにはそれがどうしてもできなかった。紙屑の、安っぽい音が耳をかすめる。

-もうひとつ、言っておかなければならないことがあります。それは、レキ、あなたの時間のこと。
あなたの時間は、レキが大切に想うその人よりずっとずっと終わりが来るのが早い。
ブレイマーは通常二十年もすれば命が尽きます。あなたがどれだけブレイマーの性質に近いのか、お母さんには分からないけれど、 雨に弱いことも、レキの血液に治癒力があることも、確かです。
私を、恨んでくれて構いません。恨んで、恨んで、このことを絶対に忘れないでね。
私だけを恨み続けて、レキの愛した、愛してしまった人をあなたなりに大事にして下さい。
最後にレキ、母さんはそれでもあなたのことを愛しています。-