ACT.19 スイッチ


  生まれて六年間は何不自由ない生活だった、どちらかというと他人より裕福な家庭だったことを幼心にハルは覚えている。まだロスト シティが「ロスト」する前、そこから程近い街で優しい母と正義感の強い父の下、彼は育った。時折街に「ノーネーム」と呼ばれる 孤児が出没しては悪さを繰り返す、父親譲りの正義感と子どもの遊び心からハルはノーネームを捕まえるめ、日々パトロールを行って いた。
  その日は果物屋の店主が拳を振り上げて小道を全力疾走していて、少し前を子どもが二人、りんごを抱えて逃げ回っている光景が 目に飛び込んできた。その街では有名な万引き常習犯のノーネームだ、ここ最近ハルが躍起になって追い回している。気合いを入れて 二人の後を追う。後方の子どもが振り返ってハルの姿を見るや否や速度を上げた。とにかく逃げ足の速いのがこのノーネーム、レキと ジェイの特徴だ。
「レキ、やっべえよ。また“ハル”が追っかけてくんぜ!」
「無視して川原まで逃げきりゃこっちのもんだって。走れ走れっ」
この鬼ごっこはもう何度となく互いに経験している。いつしか互いの呼び名も知るようになり、レキもジェイもどこか楽しげに逃げ 回っていた。
「待て!」
川原に続くあぜ道まで走りきるとレキたちの勝ち、ハルは諦めて帰るというのが暗黙のルールとして共有されている。が、今日に限って はハルはあぜ道に来ても追跡をやめなかった。息を切らして走ってくるハルを見て、レキが顔をしかめて停止する。三人とも、息も 絶え絶えだ。
「何だよ……っ!ルール違反だろ?今日は俺らの勝ちなんだからりんごは俺らのもんだぜ」
ジェイも肩で息をしながら何とか同意を示そうと大きく頷く。ハルは悔しそうに口を尖らせて顎に溜まった汗を拭った。
「分かってるよ!……それとは別に今日は……用があって」
レキとジェイが顔を見合わせる。六歳そこらの子どもが腕を組んで半眼で相手を待つ様子は、滑稽なようで二人にはあまり違和感が ない。
  ハルが取りだしたビニール袋には大量の手作りクッキーが詰められていた。互いのプライド保持のため、ここは仏頂面を保つ。 ハルは敢えてそっぽを向いて手ぶらのレキに袋を差し出した。
「母さんが焼いたんだ。……持って行けってさ」
レキは無言で袋を受け取った。バニラとバターの香りがふわふわを鼻をくすぐる。ジェイが横からいつの間にか覗き込んでいた。
「すっげ。ハルの母ちゃんこんなの作れんの!?サンキュー!」
二人のポーカーフェイスの努力を台無しにしてジェイが屈託無く笑う。レキが小声で釘を刺して頭を抱えていた。素直に礼を言って しまった後ではどんなに突っ張っても後の祭りだ、レキも観念してハルを真っ直ぐ見るとジェイが抱えていたりんごの山からひとつ 、格別色の良いのを選んで放り投げた。ハルの手元にうまい具合に転がり込む。
「やるよ!あそこの親父のは熟れてて結構甘いんだぜ」
「盗んだものなんかもらえるか!」
りんごと同じく真っ赤になって怒鳴るハルを、レキとジェイはまた顔を見合わせて笑った。白い歯を剥き出しにして無防備に笑う幼さ と彼らの生き様はどこかボタンの掛け違いのようなアンバランス感を見せる。
「また明日な!」
「明日は捕まえるからな!」
  双方は普通の遊び友達とは少し違った。しかし毎日のように鬼ごっこをして競い合い、笑い合い、時に助け合った。
  間もなくしてこの平穏な街がブレイマーの大襲撃に見舞われ、ハルが両親を失うと彼もまた「ノーネーム」としてレキ、ジェイと 生活を共にするようになる。半壊した元のハルの家で三人ギリギリの毎日を送った。
  それは彼らが十五歳になるまで続いた。その頃一度ハルは彼らと離別している。勉強を続け、警察官の採用試験に合格したハルは、 家を出て中央、ユナイテッドシティで生活することになる。レキとジェイは手放しで祝福してくれた。ノーネームとして、社会がある 意味で望むとおりの在り方をなぞってきた二人にとって、ハルの出世は希望と誇りであると言っても過言では無かった。十年近く、家族 同然に共同生活を送った日々に終止符を打ち、ハルは警察官としてユナイテッドシティへ、レキとジェイは新たな自由と生活圏を求めて ロストシティへ移動、道を分かった。

  思い出しながらハルは無意識に顔をほころばせる。ジェイが怪訝そうに笑った。
「何。気持ち悪いな、さっきから」
「いや、なんか昔のことを思い出してさ。話したことあったよな、俺が警官辞めた理由」
「辞めさせられた、だろ?」
「……まああんま変わんねぇけど……。ノーネームは一生出世できないし、上からの圧力も差別的だし、能力云々以前の問題でさ。排除される 側の人間が組織内に居るってのは都合が悪いんだよな。存在の価値とか意義とか、正直ちょっと考えたよ。辞めて、お前らに会う気も 本当は無かった。あんまりにも情けなくてさ」
  誰かを守るために、助けるために、正義を貫くために人の倍以上苦労してその道を選んだはずが、気付けば自分さえ守れない立場に居た。 ハルが考える正義はそこには、否、世界にはもはや無かったのかもしれない。皮肉なことに、人々は死した街として捨て置いたロスト シティに、自由や、秩序や、綺麗なものの諸々が息づいていた。それはレキに再会した瞬間に感じることができた。
「レキ、めちゃくちゃ喜んだよな、ハルが戻ってきて。サブヘッドが見つかった!とかっつってな」
「半分無理矢理メンバーに入れられたしな……。でも“フレイム”には-」
ハルは空になったウイスキーを見て、ジェイの分共々注文する。
「レキはさ、自分の周りにいる人間はみんな守ろうとするだろ。そんだけ器がでかいんだって言えば聞こえはいいけど、結局自分を守る ことに関してはおざなりもいいところっていうか、だからこそフレイムにも、レキ自身にも俺が必要だって考えた」
ジェイは出されたグラスに口をつけたところであわや吹き出しそうになりながら、何とか留まる。このままレキへの愛の告白などを 聞かされたらどう対応しようか悩むところだが、ジェイのくだらない危惧は杞憂に終わる。
「あいつ、誰も信用してないんじゃないかってたまに感じるときがあった。昔は無かったよ、そういうの。でもローズをさ、……ユウを 遠ざけたときになんか凄い違和感みたいなのを感じた。俺にしても、ジェイにしても、必要以上に踏み込んだら完全にシャットアウト されんじゃないかって。……でももう踏み込むしかないだろ。シバを撃ったときのレキ、どう考えたって普通じゃなかった。……あれを 止めるのはイーグルの役目じゃねえよ、俺たちだ」
「ハルぅ、お前良いこと言うな。ちょっと俺泣きそうだ……」
淡々と語るハルとは対照的にジェイは笑ったり涙ぐんだり反応に忙しい。酒の助力もあって二人は少しドラマじみた口調であったが、 本人たちは余り気にしていないようだった。ジェイは仏、とまではいかないまでも悟るか悟らないかの境目の修行僧の顔で溜まった 涙を軽快にぬぐい去る。
「フレイムサブヘッド完全復活っだな。今回のことでとりあえず二人がすげー頑固だってことはよく分かったよ。もう無しだからな」
ハルは曖昧に笑う。煮えきれない態度にジェイは身を乗り出して念を押した。
「なしだぞ」
「分かってるよ。ただレキが……どうかな。俺レキにさ、……めちゃくちゃ最低なこと言ったんだよ。あいつにとっては、絶対他人に言われ たくないことだった」
  ハルは鮮明に覚えている。あの日、サンセットアイランドの海岸でレキに浴びせた言葉のひとつひとつを、それを全て無表情で受け 止めたレキの姿を、忘れるはずもない。無知がどれ程罪なことかハルはここ最近で恐ろしいくらいに味わった。積み上げ続けてきた 確執が今更無かったことになるかと考えると、疑問を抱かずにはいられない。
  鬼火を背負い始めたハルの周りのオーラを散らすように、ジェイが大きく溜息をついた。
「レキだって悪いんだろ。でなきゃハルがあんなにキレることないもんな。悪いこと言ったと思えば謝りゃいいじゃん、どう出るか はレキ次第だけど……ぶっちゃけ、ハル欠いた“フレイムのレキ”って結構役立たずだぜ?」
ジェイが悪戯っぽく笑って目配せした。彼の導き出す結論は毎度のこと至って単純だ、いちいち物事を複雑に捉えるハルにはそれは 時に有り難いお告げのように聞こえた。
「そうだよな。お前良いこと言うな」
「……真似してんなよっ」
  久しぶりに仲間と酌み交わした酒は、懐かしく奥深い味わいだった。長い一日が終わろうとしている。バーを跡にして、二人は途中 で道を分かった。ジェイはそのままホテルへ、ハルは覚悟が萎えない内にとアイリーンの工房へ出向く。とっぷり暮れた夜空に、星と 呼ばれるものはひとつも見えない。しかしそれが、彼らの一番良く知る夜空の姿だった。