ACT.23 カタルティック アンセム


「火をくべよ!! 皆雨乞いの儀式に歌を捧げよ!! ――シオへ……!」
――届くように。地の底へも聞こえるように。世界中にこの雨が降り注ぐように。アメフラシたちは各々に声を振り絞った。ブリッジ財団が台頭し始めてから十数年、彼らは一度も歌っていない。奪われた歌も、誇りも、彼らは今取り戻したのである。
  歌は大合唱になった。冷たい雨に打たれながらも、その哀しさに触れながらも、皆心のどこかで解放感に満たされていた。
  里全体を覆っていた雨雲はみるみる内に膨らんで、広がり、流れていく。雨は彼らの思惑通り世界中に降った。「雨」という言葉すら忘れ去られた砂漠、ユナイテッドシティ、ブリッジ財団、ロストシティ、そしてクレーターの真上に雲は広がり雨を降らせる。そしてブレイマーが溶けていく。成す術もなく、抗うこともできず、断末魔をあげて形を失っていく。溶けて崩れて液状になると、すぐさま流されて跡形もなくなる。そう経たない内に世界は静寂に包まれた。


「シオ……?」
  レキが堪らず、堪えていた声を出した。シオの歌と舞が途切れて数十秒経つ。終了、という雰囲気ではなかったことだけは分かる、証拠にシオも呼ばれてようやく我に返ったようだった。
「里のみんなが歌ってる。……歌って、くれてる」
「分かんのか」
「感じたの、とても強く」
頬を高揚させるシオとは逆に、レキは口元を引きつらせた。ということは、間違いなく地上は土砂降りだ、ただでさえ気力も体力も底を尽きかけている中でレキにとっては嫌な情報のひとつでしかなかった。ブレイマーの大半はおそらく溶解しただろう。雨乞いの続きに意識を集中することで妙に生々しい想像を振り払った。それでも頭の隅を離れない現実への思いがある。
  ここは死んだ者の世界だ。地獄のようであり、どこか天国のようでもある。地上は今そのどちらなのだろう、天国か地獄か、誰かにとってそうであるだけなのか、あるいは誰にとってもそうであるのか、状況の予測はできてもそれが何をもたらし思わせるかは地下にいるレキには測りがたいものであった。
  良くも悪くもクレーター内部は別世界だ。しかし、ここも所詮は現実の延長、一部である。レキはそのことをよく分かっていたし、分かった上で焦燥に駆られていた。
  シオの指先が、腕が、体が踊るのをやめる。一度大きくくるりと回ってみせて、シオは深々と頭を垂れた。終止符が打たれた。ジェイがコンサートさながらに指笛を鳴らし、シオに賛美の拍手を送る。シオはガラスの花が敷き詰まった地面を見つめたままクスリと笑ったが、未だ顔をあげない。
  自分とは別の足音――ガラスを踏みしめる音だが、その音にシオが一気に上体を起こした。レキが、笑顔で立っていた。
「帰ろうぜっ!」
レキはいつも無意識にシオの手を引いた。今もきっと無意識にシオに手を差し伸べたのだろう。シオはその手を取らなかった。彼が意識的にはシオの手を取らないことをもう知っていた。
「ひとりで歩けますー。子どもじゃないんだから」
シオは殊勝な笑みを浮かべてさっさと二人を追い越すと、軽い足取りで先陣を切る。踏みつぶしているガラスが派手に飛び散るが、その音はビスケットを叩き潰しているようなお粗末なもので先刻と印象が違う。実際はずっとこの感慨のない音だったのかもしれない。事実を何のフィルタも通さず見ると、こんなものだ。
  もっとお粗末なのはレキで、差し出した右手の行き場がなく呆然とした顔でそのまま頭を掻いた。ジェイが隣で堪え切れず笑いを吹き出す。小さく「ダサッ」なとど聞こえたが、もはやそれに対して青筋を立てる元気もなかった。
「……よく言うぜ、入口ですっ転びそうになったくせに」
「そんなの覚えてない。ほらっ、いつまでここに居るつもり? 帰るんでしょ!」
シオが活気づいている。魚でもなく水もないのに、水を得た魚並に活気づいている。不服そうにうなじを摩りながらレキも、ジェイも、シオに従った。
(さっきまで半べそで駄々こねてたくせに……)
レキはまだ胸中でシオの調子の良さにぼやいている。始めは歩きまわるのすら躊躇われたガラスの花の床を、今は事もあろうかこれみよがしに踏みつけて鬱憤を晴らしていた。
  皆憑き物が落ちたような、ある種の清々しさを感じていた。肩どころか、背中やら両手やらありとあらゆるポケットやらの荷が下りた気がしていた。ルビィの入っていない懐が嘘みたいに軽かった。
  ガラスの床と何の愛想もない岩肌むき出しの鍾乳洞との境で、レキは最後に一度だけ振り返った。あるべき場所で柔らかな光を放つルビィ、ガラスケースで眠る女性、薄青く光る壁、反射する地面、来た時とさして変わり映えはしない。強いて挙げるなら床を踏み散らかしたことくらいで、それを差し引いてもレキはもうこの場所を美しいとは思わなかった。幻想的でもなければ神々しくもない。この場所にかけられた魔法は、シオの歌で解けてしまったように思えた。
「レキ、急ごうぜ。ハイドレインジアの制限時間もあるし」
「そうだな。気持ち、小走りで」
言いながらレキは一気に振り向き、宣言通り足取りを速めた。足元につきまとっていた粉砕音が途切れる。三人は再び闇と恐怖の洞窟に戻った。ジェイが手早くヘルメットのライトを点ける。明かりを点けたがために全員競歩さながらの中途半端な早歩きだったことが判明して、ジェイはバツが悪そうに咳ばらいした。
「悪い知らせがあるんだけど、言ってもいい?」
「駄目だっつったら言わねぇのかよ! 何!」
レキはまた速度をあげる。だいたい予想がついたからこその行動だ。
「じゃあ言うけど……ハイドレインジアの制限時間、あと一時間……もないんだよね、これが」
反応がない。ちなみに警戒しながらだったことも含め、往路は実に慎重に、換言すればのんびり歩いてきた。ルビィの安置場所に辿り着くまでにそのペースで三時間半、さっさとルビィを納めてさっさと雨を降らせて小走りで帰ればぎりぎりセーフであっただろう。そうであるとすれば原因は明らかだ。
「シオ!! 見てみろっ、駄々っ子のせいで大ピンチじゃねえか! どう考えたって出口までもたねぇだろ!」
「は!? わ、私のせいなの!?」
シオの発言はもっともだ。彼女がルビィを置くのを躊躇った時間など十分に満たない。つまりこれは俗に言うレキの八つ当たりだ。
「儀式もこう、うまい具合にショートカットとかできなかったのか!? テンポアップ! とか」
「馬鹿なこと言わないでよっ、ショートカットって……!」
シオは自己の弁解のあほらしさに嫌気がさして嘆息するとレキの相手をやめ口をつぐんだ。正しい判断だがないがしろにされたレキにしてみれば小癪な態度だ。シオに呆れられると相当堪える。レキはまたスピードをあげた。
「ジェイ、帰り道覚えてるか?」
「覚えてるよっ、当然だろ!」
「だったら走るぞ! ここまで来て餌にはなりたくねえからな!」
レキは有無を言わさずシオの手を取った。その強引さが恰好良くもあるのかもしれないが、どう贔屓目にみても嫌がる女性を引きずりまわす誘拐犯にしか見えない。先刻までレキのために涙していたシオが、今は言いたい放題レキをけなすのを見てジェイさえも苦笑を漏らした。
「なんかなぁー、仲良いんだか、悪いんだか……」
ジェイもそれきりくだらない感慨を口にするのをやめた。毎度毎度無駄に体力を消耗していち早くダウンするのが自分であることを、いい加減に学んだ彼は前方を罵倒し合いながら突き進む二人を特にたしなめるでもなく仏の笑みで見守った。
  地下空洞内に当然のことながら雨は届かない。だからこそレキも踏ん反り返っていられたわけで、レキに何の影響もなかったということは同じ地下にいたここのブレイマーたちは、やはり何事もなかったかのように徘徊している。クレーター内に残っているブレイマーについては、とりあえず今である必要はないし、街に出てこないのであれば急を要する問題ではない。
  注目すべきは既存のブレイマーではない。ジェイは走りながら変化に気づいた。どこにライトを当てても平凡に彷徨うブレイマーを時折照らし出すだけで、例のシーンに出くわさない。あの凄まじい産声も、どんなに耳を澄ましても聞こえてくることはなかった。
  レキとシオも気づいたのか、ようやく罵り合いを中断し辺りに気を配る。レキの隣でシオが哀しく笑う。
  もうブレイマーが生まれることはない。苦しみの連鎖は断ち切られた。そしてもうレキが、嘘を積み重ねることもおそらくない。
  周囲に視線を配るのをやめた。彼らは自らに課した使命を果たしたのだから、後は無心に出口を目指せばいい。この暗く深い闇の淵から光射す地上まで、三人はただ走り続けた。