ACT.23 カタルティック アンセム


「シオー……ここまで来といて駄々はよせよ。もう決めたことだろ? 納得したって、言ってただろ」
  シオは力なくかぶりを振り続ける。レキは冗談めかして言ったが、ジェイの目には確かにそれはただの駄々っ子のようにしか見えない。そして唐突にシオがそう振舞いだしたことに全く理解が及ばなかった。
「じゃあ……あれは嘘かよ」
シオはかぶりばかり振る。いささか見飽きたのと要領を得ない苛立ちがレキの声質を冷めたものに変えた。
「どっち」
「レキっ! ……外野がごちゃごちゃ言ったらやりにくいかもしんないだろ、シオもさ、どうした? 深呼吸! 深呼吸しようぜ!」
ジェイの底抜けに明るい声がこだまする。シオは深呼吸はしなかったが真一文字に結んでいた唇を静かに開いた。俯いたままで動かした唇、その一語一語をレキは懸命に読んだ。ハルほど読唇ができるわけではない、シオに伝える気がなければ理解するのは困難だった。
  いや――ハルにしても最初から唇を読む天才だったとは思えない。彼は彼なりに努力したに違いなかった。
「は? ユウ?」
予想だにしない名前が出てきた。リュウさんだとかミュウさんだとかキューさんだとかの知り合いはいないから十中八九ユウのことだろう、レキが正しい反応をしたおかげかシオも僅かながら顔を上げる。
「(ユウさんの言った覚悟の意味が……今やっと、分かった)」
  レキは解ろうとした。だからシオもこうやって伝えてようとしてくれる。
「(ルビィを置いたら……その先に残るものと無くなるものがあって……。分かってたはずなのにどうして考えなかったんだろう……レキが……!!)」
シオは嗚咽を堪えるためにまた唇を強く結んだ。
  レキは胸中でユウにぶつくさ文句を垂れながら深々と嘆息する。彼の希望は、何の躊躇もなく、呆気なく、味気なく、どこまでもあっさりルビィ返還が完了することだった。一度立ち止まると踏み出すために気合が必要になる。しかし、こうして既に思い切り踏みとどまってしまったからには悔いても愚痴っても仕方のないことだ。
「大袈裟。……俺は別にどうもなんないって。今、外うろうろしてるブレイマーだってルビィ戻したからっていきなり消えるわけじゃねぇんだから」
「は? ちょおレキ、何の話?」
ジェイの顔色がみるみる内に曇り始める。シオの涙の理由と、レキの苛立ちの理由が一気に表出するとジェイさえも眉根を寄せて視線を落とした。
「消えるって……何。それいくら何でも……考えすぎっしょ! レキだぜ!? ブレイマーだって消えないんだろ!? 何でレキが……なぁっ」
ジェイは必死に笑顔を保った。所謂、目が笑っていない状態で陽気な声だけ出しているとリアルなマリオネットのようで、自分で自分が不気味に思えた。
「(保障なんか……どこにもないじゃない)」
シオの静かな言葉はジェイすら黙らせる。
「……俺が消えないっつってんだから、それ以上の保障なんかあるわけないだろ!? そういうの、無いとダメなんだったら身動きとれないぜ。いつだってそんなもん無かっただろ?」
レキは試すように二、三度ガラスケースを手の甲で叩いた。無論返事はない。ショーケースの中の女は固く瞼を閉じたままだ。
「何のためにここまで来たんだよ。ルビィ持って、財団敵に回して……。約束したんだろ、あの、隠れ里のブレイマーと」
  ルビィの影響で凶暴化してレキがその手で撃ち抜いた、シオと心を交わしたブレイマー――。
「死んだ人間がブレイマーになって会いに来たって嬉しい人間なんかいねえよ。……いちゃ駄目だ。俺はごめんだわ、死んだ後くらいゆっくりしてぇし。もう解放してやろうぜ。ブレイマーも、この人も、……シオも、俺も」
  シオの目から大きな涙の粒が零れおち、青白い光を反射して輝きながらガラスの花弁の上で飛び散った。この冷えきった虚像の世界でシオの涙は唯一の温かさを持つ、本物だった。
  手の中に閉じ込めていたルビィの光が徐々に辺りを照らし始める。禍々しいだけだと思っていた紅の光が、今はやけに神々しくてレキは目を細めた。
  シオの目に強さと潔さが戻る。レキは場所をあけ渡そうとジェイの方へ二、三歩後ずさった。
  シオは思いだしたように大きく息を吸い込むとゆっくり吐きだした。これで全て終わる。生まれ出ずる罪も、存在する罪も、傷つけるしかできない罪も、すべて消える。そしてレキ自身の偽りだらけだった自分が終わる。
  シオと目が合った。レキはただ一度、強く頷いた。
  シオの手が優しく撫でるようにルビィをくぼみに収めると、大した音もせず紅の光は消えうせた。あれだけ自己主張激しく、ところ構わず照っていた光は嘘のように無い。目蓋の裏が元通り淡い青色に染まるのを感じてレキは目を開けた。無意識の内につむっていたらしく、開けてからそのことに気づいた。
  ルビィはきちんと、留め具部分に張り付いて淡く輝いている。こうして見ると本当に美しい宝石に見える。ガラスケースの中の美しい女性に相応しい赤だ。
「置いちゃった……」
震えたシオの声、語尾がかすれていた。涙を堪え、嗚咽を堪え、気持そのものを堪えてきた彼女の久しぶりの声だ。
「よく頑張りました。クレーターチーム作戦終了っ、フレイムもお役ごめんだな」
「ってかほら、シオ。レキちゃんと居るよ、な? しぶといからもー」
「だから言ったろ! 悪かったなしぶとくて!」
  ジェイはシオがルビィを置く数秒間に、子どものようにレキの手を握っていた。無論消えないように、咄嗟の判断だった。そして事なきを得た今、それは至上最強の気色悪さを誇る光景だ。レキはそそくさとジャケットの裾で悪寒の残る手のひらを拭きながらシオを見た。泣いているのか笑っているのか、またどっちをしたがっているのか曖昧な顔つきだ。
「でもさ、何もこれといって変化なしだよな。これで本当にブレイマーの発生って止まったのか?」「止まった、間違いない。保障はないけどな」
早くも悪ノリが始める。ただそれも一瞬だった。レキはシオの方に向き直ると改めてその表情を目にする。彼女は分かっている。次に何をするべきか、もう知っている。
「シオ、まだ仕事が残ってるだろ」
シオは頷いた。反動で長いまつ毛に残っていた涙の粒が落ちた。雨上がりに木の葉から滑り落ちる雫のように、儚く、脆く、美しい。
「何」
ジェイが顔をのぞかせる。シオは腕を伸ばし、その線に沿ってもう一方の腕を重ね合わせると目を閉じた。ジェイが不可解そうにレキを見る。
  次にシオが目を開けたとき、それが始まる。
「雨乞い」
  シオの瞳が大きく開かれ、同時に腕が、足が、指先のひとつひとつが滑らかに動きだす。
  雨乞いの儀式での舞、レキが目にするのは二度目だ。アメフラシの里で独り舞っていたシオ、レキが見た一度目も完全なものではない。あの時の彼女は黙ったままだった。そして、今シオは歌う。雨を呼ぶために。その雨が地上のブレイマーを溶かし、洗い流してくれるように。
「きっれーな歌だな……」
「……うん」
二人はぼんやりシオの雨乞いを眺めていた。シオの声は今まで聞いてきたどれよりも透きとおっている。今頃地上は雨にぬれているだろうか、やはりそんなことを思いながらもシオの姿に、舞に目を奪われていた。
  クレーターの中でなかったらレキはこんなにのんびり酔いしれてなどいられなかっただろう。そこら中のブレイマーと一緒になって路上でのたうち回っていたかもしれない、想像すると無性に笑えた。そしてシオもクレーターの中でなかったら踊れなかったかもしれない。こんな見事な声で歌えなかったかもしれない。レキにとってもシオにとっても、今だけはクレーターがシェルター代わりだ。
「なんか夢の世界にいるみたいだなぁ……」
虚ろな瞳でジェイが随分間の抜けたことを言う。だからと言ってレキは取り立てて否定しようとも思わなかった。夢心地であることに違いはない。
  歌は響き続けた。レキも、ジェイも、その響きに心を委ねた。


  同時刻、雨降らしの隠れ里――。
「里長!!」
里長宅の扉が乱暴に開かれた。そしてそれは今ので数度目である。血相を変えた里の若者が、里長とそこに集まっていた村人たちを目に入れて自分の感覚が間違いではなかったことを悟る。自分の後方からも続々と集まってくるのを見ると、彼もまた村人たちの輪の中に加わった。
「皆、感じたようだな。……シオが歌うておる」
  窓の外は暗雲立ち込める空しか映っていない。遠雷がやたらに狭い間隔で鳴っては、薄暗い室内を照らし出した。
  皆沈黙を守っている。疑問を口にする者はいない。
「時が来たのだろう。浄化の雨を降らせる時が。……皆手伝どうてくれるか、我々アメフラシの役目を果たさねばなるまい」
里長が重々しく腰を上げると、集まっていた村人たちは皆降りしきる雨の中に身を委ねた。
  雨は激しく降ったかと思えば急に弱弱しくなったり、不安定だ。
「シオよ……決めたのだな。なんと哀しい雨音か……」
「泣いているようだわ、空そのものが……」
訳もなく皆虚無感を覚えていた。雨粒ひとつひとつが刺すように肌を濡らす。木々を、小川を、大地を濡らし、潤していく。
  里長をはじめ里の者たちは皆、大松明を囲んで大きな輪になった。次から次へと薪がくべられ、雨の中でも炎はいつもより猛々しく燃えている。