ACT.24 ラストサイン


  忘れた頃に、痛みはやってくる。忘れたふりに徹していたレキを嘲笑うかのように疼き出す。左腕が悲鳴をあげていた。厳密に言うと痛いのか、熱いのかよく分かっていない。正しい感覚を持てているかどうか自分で自分が疑わしかった。更に、空気に含まれた湿気がレキに追い打ちをかけていた。雨は地下に降ることはできないが、大地は水を吸い込み、空気は水気を帯びることができる。
  近くに項垂れるブレイマーにレキは辛くも同意を示してしまった。できることならトカゲのように腕を切り捨てて走り去りたい気分だ。誤魔化しても、緩んだ速度と荒い呼吸が残りの二人に不安を与えてしまった。
「平気か? なんか、きつそう」
ジェイがレキに合わせてスピードを落とす。顔一杯に心配色を漂わせているジェイを見て、レキは思わず笑いをこぼした。
「お前の方が大丈夫かってかんじだけどなっ。心配する余裕があるならとっとと前走って誘導してくれよ」
ジェイは煮えきれない返事で再びレキを追い抜いていく。
  レキの右手はがっちりとシオの手を掴んだままで、未だに離れずに二人で走っている。手ぶらだったら今頃、間違いなく左腕ををを握りつぶしていた。握っているのがシオの手だという意識がレキに理性を保たせてくれる。ただ、やけに汗ばんだ手のひらは今更誤魔化しようがなかった。
  シオは明らかにレキのやせ我慢に気付いている。気付いていても、それを指摘したところでどうしようもないのが現状で、強気に振る舞うレキの調子に合わせる以外できなかった。
  前方、ジェイが急ブレーキをかける。レキとシオもそれに合わせて足を止めた。出口はまだ先である。彼らが立ち止まった理由は、一目瞭然だった。 「あれ……、入口に居たビル級だよな……!! なんでここにあれが居んだよ……っ、どうやってあの狭い道通ってこれたんだよ……!?」
呼吸を荒らげながら、ジェイが息と一緒に言葉を絞り出す。彼の疑問の答えなど生憎レキもシオも持ち合わせていない。
  地上に降り注いでいる豪雨とその余波の影響でやはり興奮状態にあるそのブレイマー、ジェイの言うとおり遠くから見ているだけで足が震えだしそうな恐怖は本日初というわけではない。
「できれば外に飛び出してって溶けてて欲しかったんだけどな……っ」
レキがこれでもかと言うほど皮肉の笑みを浮かべる。横でジェイが携帯用種族臭さチェッカー(ゴーグル)をかけていた。絞首台に自ら上っていくようなもので、ジェイは取り繕う気力もないのか青白い顔でゴーグルを下ろした。説明は無いが、その無言が全てを物語っているようなものだった。
「もう、切れてるの。ハイドレインジア」
抑揚のないシオの声。
「どう、する」
元から動作性に優れていない思考回路がショート寸前らしく、独り言のようにジェイが呟く。
  ハイドレインジアの効果が消える、即ち、レキたちは今丸裸だ。ジェイがゴーグル越しに見た景色ではレキ、シオ、各々に青みがかったもやに包まれていた。遥か前方でゆらゆら不規則に体を傾けているブレイマーは濃い紫色、この違いがここでは生死の決め手である。今でこそブレイマーは遠くをふらついているだけだが、いつこちらを捕捉してもおかしくない状況にある。そして奴のテリトリーを突っ切らない限り出口に辿り着くことはできない。
  迷いようがなかった。レキはシオの手を離し、汗ばんだその手を懐の中に突っ込んだ。メインアームを抜く。
「やるしかないだろ」
ジェイの表情が瞬く間に険しくなった。さも当然のように言ってのけるレキを異常なものでも見るように口元を歪める。
「無茶言うなよ……! こんなちっせえハンドガンでどうこうできる大きさじゃねぇだろ!? 死ぬつもりかよ!」
「はぁ!? 死にたくねぇから戦うんだよ! どっちみちあいつを越えなきゃ洞窟から出られない!」
  シオは動じず、憶せず、深々と頷いた。肝が一番据わっているのは彼女なのかもしれない。
  ジェイはただ目を丸くしている。レキの一喝で恐怖は何処かにすっ飛んでいった。勇気やらやる気やらが湧いてきたわけではなく、意識がごっそり別のところへ持って行かれたからである。
「そう……だよな。死にたくねぇ」
大豆のように点と化した瞳のまま呪文のように復唱、ぶっきらぼうな相槌をうちながらもレキは小首を傾げた。そして、不気味ににやつき始めたジェイを見て完全に口の端をつり上げる。何はともあれ、ジェイは自主的に銃を抜いた。気色の悪い薄ら笑いを浮かべていようが、加勢する気になったなら万々歳だ。
「やってやんぞーー!! てめぇの餌になんか誰がなってやるかってんだ! よっしゃ! レキ! やるぜ!」
何かの螺子が外れたのか、どこかのスイッチが入ってしまったか、分からないがレキはとりあえず適当に調子を合わせておいた。いささか気持ちが悪いが怖じ気づかれるよりは百倍良い。
  追求しようとしなかったから、レキは結局自身の心境の変化に気付かないままとなった。状況は全く異なるもののジェイとレキ、二人は今と酷似したやりとりをかつて交わしたことがあった。
--死にたいのか!?--
--……かもな。そんなん恐くねえよ--
  ジェイの問いにレキは淡々とそう答えた。三年以上前の話だ、それにも関わらずジェイはそのやりとりを時に思い出していた。気がかりだったのかもしれない。当時のレキの心境をジェイは詳細に知っているわけではなかったし今に至ってもそれは同じことなのだが、肝心なのはレキの答えが何か、ただひとつだった。
  彼は確かに『死にたくない』と答えた。ジェイが心の何処かでいつも不安に思っていたことが払拭される。
「ヘラヘラぼやぼやしてんなよ!! 行くぞ!!」
レキは走りながらダブルアクションをコッキングし照準を定めた。ビル級ブレイマーはまだこちらに気付いていない。先手必勝とばかりにレキがトリガープルした。それも全段発射だ。惜しげもなく弾をぶち込むと、銃声にか僅かな痛みにかブレイマーが反応を示す。痛みを覚えているかどかは疑わしかった。レキの放った弾はものの見事に体内にめり込んで、めり込みっぱなしのまま出てこない。
「に……肉厚……っ」
「言ってる場合かよ……! 来るぞっ」
  結果的にただの挑発になってしまった。ブレイマーが方向転換と同時に一歩こちらへ踏み出す。地鳴りと揺れが、レキたちの足元まで伝った。微動だにしない時間が約十秒、その後、
グゴォアア”アア!! --戦闘開始の合図らしき絶叫が轟く。地の底全土を揺るがすような低い、長い咆哮。図体がでかいだけあってその鳴き声はもはや声と分類するにはおこがましいものがあった。三人揃って耳を塞ぐと同時に体を強ばらせた。
「手榴弾は!?」
「地下であんなの使ったら私たちまで埋まっちゃう!」
耳を塞ぎつつ近距離でがなり合うシオとジェイ。鼓膜を守っている間に、ブレイマーは一気にこちらとの差を詰めた。一歩が凄まじく大きい。
  微震の中、レキは詰め替えたカートリッジ入りの銃をがむしゃらに連射した。何の反応も無い。奴にとって銃弾は、蚊がとまった程度の感触なのかもしれなかった。銃声がけが空しく響く。視界の中で高速に大きくなっていくブレイマーの姿、それが次の瞬間視界一杯になった。
「ジェイ!! 飛べ!!」
レキはシオを下敷きにするように倒れ込んだ。彼の元居た位置にブレイマーの上体が覆い被さる。そのまま岩肌剥き出しの地面に頭を叩きつけて小さなクレーターを作った。
  ガァ”ァ”!! ア”ァ”ァー!!--目標を見失ったブレイマーは三百六十度頭を回転させ始める。近くに居すぎると足元の獲物は捕捉できないようだ。レキとシオのすぐ目の前に、したたり落ちる体液が音をたてて弾けていた。そして二人は呆然と、その様子を見ている。
「……レキ……っ」
シオの肩が、腕が、唇が震えている。レキは何か言おうとして、言葉を詰まらせた。指先がしびれている。銃を撃てば相手はこちらに気付く、しかし撃たなければ倒すことはできない。
「せめて頭に当てられれば……っ」
レキが上方を睨み付ける。そしてブレイマーの足の向こう側で同じように上を見ていたジェイが、人差し指をブレイマーの頭に向ける。
「シオ、離れんな」
  レキとジェイ、同時に上方に銃を向ける。両サイドからの攻撃に僅かな期待をかけた。
ダン!! ガァン!!--一発目を皮切りに二人は次々と引き金を引く。命中したのは数発で、残りは当たらなかったりそもそも届かなかったりした。ブレイマーが地響きと共に数歩後ずさる。効果は多少あったようだ、ブレイマーの気が逸れている内にとジェイが腰をかがめたままレキ、シオと合流した。
「やっぱ頭だよ! 全部当たればどうにかなるかもしんないけどな……!」
「口の中がベストなんだけどな、吠えてるときか屈んでるときじゃなきゃ無理だ」
まず二人の腕から言って、上方に向けて全弾命中はありえない。更に、吠えているときは体の自由が利かなくなるし、屈んでいるときは思い切り喰われる直前で逃げるしかできない。つまり全案、ボツだ。各々それを理解するとただ押し黙るしかできなくなった。
(せめてエースが居ればな……!)
彼なら上方発射で全弾当てることができるかもしれない。もしくはジェイあたりを囮にしてブレイマーを屈ませるか、その大口を開かせるか。そこまでできればエースの腕なら確実に仕留めることができる。それがレキになると一気に確率半分になる。つまり囮役が喰われる確率も五十パーセント。
  考えてレキは頭を抱えた。ジェイが加わっても、確率は百パーセントにはならない。第一囮候補がいなくては成り立たないのだから破綻もいいところだ。