ACT.24 ラストサイン


  ハルは慎重さと迅速さを兼ね備えているタイプの人間だった。聞こえはいいが実際は単なる器用貧乏で、どちらに秀でたわけでもなく肝心なときには中途半端でもある。
  普段は小出しにしている両方の神経をハルは研ぎ澄ませていた。パネルまで五十メートルに満たない位置に居て、やることはただひとつだ。
  まず走る。破壊するのはハルが今握っている一丁の銃だ。後続は期待できない。
「ハルっ! ちょっと待てってコラっ」
予想より早くエースが到着した。走りながら肩越しに振り返る、だけのつもりがハルは完全停止を余儀なくされた。視界には息を呑んで凝固するエース、そして鼓膜に届いたのはいくつもの重火器が擦れる音だった。
  巨大なパネル時計の方に再び目をやる。やはり、時はカウントダウン形式で刻まれていた。そして、その数字にハルは驚愕することしかできず、立ちつくした。
  時計の奥にエレベーターがある。往路でハルが使用したもので、今はその目の前に数十のユニオン隊員が整列している。各々手に銃を持って、だ。その全ての銃口が自分とエースに向けられていることよりも、ハルの意識は休み無く残り時間を削っていくパネルの数字にあった。
「四分……」
「ノーネームも数字の読み方は分かるのか。その通り、四分だ。銃を向けられたらどうするかは知っているかね?」
片方の耳から片方の耳へ、言葉が素通りしていく。半ば放心状態で、ハルは移り変わる数字を眺めていた。
「おい間に合ったか!? 入口で突っ立ってんな!」
また別の声が背中に響く。すぐに口ごもった。ヤマトは息も絶え絶えにここまで上ってきて、入口を塞ぐように立っていたエースを押しのけて顔を出したことを、即行で後悔した。そしてすぐさま両手を挙げる。数秒遅れで合流したイーグルも緩やかではあったがヤマトと同じ流れを辿った。
「流石はイーグル殿、状況理解はお早い」
  先刻から隊の中で一人口を動かしている男は銃を構えたまま一歩一歩近づいてくる。腕章はイーグルと同じもの、つまりこの男も大佐である。
  デジタル時計は音もなく動いていくのに、ここにいる人間は銅像のように誰一人動かない。動けずにいた。
「ゲリラはもう終わりか、イーグル大佐」
声を出しているのでさえ、この男だけだ。
「……そのまま動かずにいれば命は助けてやる。特等席で世界最大の花火を鑑賞しようか、残り三分だ」
「動かずにいれば……?」
ハルが虚ろにオウム返しした。三分、固まっていれば命は助かる。
「……誰のがだよ……」
自嘲して笑みがこぼれた。こんな些細な仕草ひとつで全ての銃口が瞬時にハルに向けられる。それらを極力視界の外に追いやって、同時に“特等席”から外の景色を見た。小雨がぱらぱらと落ちては流れ、消えていく。澱みきった空、灰色一色の空、どこまでも終わりのない闇がハルに何故か安堵を与えてくれた。
  シオは無事ルビィを返したのだろう--静かな雨音は心地よい音楽のようでもある。ハルは再び時計に視線を移した。時間は待ってくれない、そして逆に急いてもいなかった。ただ淡々と定められた間隔を刻み、過去を切り捨てていく。
「……エース」
  道はいくつかあった。しかしそのいくつかが具体的にどういった道だったかを考える必要はなかった。
「レキに……謝っといてくれよ。ごめんって、帰れなくてごめんって」
  どれだけ道があっても、ハルはこの道を選ぶ。レキがそうだったように。
「おい……、ちょ、ちょっと待て……」
エースが思わず身を乗り出した一歩先の地面に、ユニオンの弾が放たれる。
  その間にハルは渾身の力でスタートダッシュを切った。手元はリボルバーをコッキングする。
「よせ!! ハルっ、俺が……!!」
「俺が一番速い!!」
一発目の弾が、秒刻みのパネルに命中し、穴を開けた。会心の笑みが漏れた刹那--雨が降った。
パンッ--思い鉛の雨が、降った。
パンッ!! パンッ! ダン! バン!! パァン!!--ただ、ただ黒い、礫が一瞬の間に体の芯を突き抜けていった。
「ぼうっとするな!! 伏せろ!」
イーグルの怒声が響き、ヤマトが、エースが為す術もなく地べたに這い蹲る。
  自分の周りだけ集中豪雨に見舞われたように、ハルの半径一メートルが真っ赤に染まった。血溜まりの中に立っていた。ハルはふらついて、倒れていく視界の中に時計を見つけるとギリギリのところで踏みとどまった。銃口を配線へ向ける。
「撃たせてたまるかぁ!!」
ハルは守るために引き金を引いた。クレーターにいる仲間を、大切な人を、交わした約束を。
パァン!! ダン! ダン! ダン!--銃声はなおもやまない。ハルが撃つ照準の定まらない弾丸は力無く壁にめり込んでいくのに対して、ユニオン側の銃弾は一寸の狂いもなく次々とハルを貫く。
  手足の力が、一気に抜けた。倒れたら、起きあがれないことを知っていたから、ハルは両膝をついて最後の一発を放つ。限りなく赤くなったハルの視界の中で、人一倍太い配線がちぎれた。同時に銃が手から転げ落ちる。手が、頭が、体が、重力に逆らえずにへばりついた。
「ハッ……ガッ……」
何を吐いているのか見当もつかない。ただ、ハルが四つん這いになった床は生暖かくて悪い気はしない。銃撃がやんでいた。カウントダウンは、止まっていた。
「ざまあみろ……!」
ハルは子どものように笑って、震える中指を立ててみせた。
--じゃあ、これは? どういう意味?--シオの声が頭の中で響く。そうだ、彼女には教えられないサインだった。
「この……ドブネズミがぁぁ!!」
パァン!!--頭の中のシオの声が途切れ、代わりに聞いたこともない音量で銃声が支配した。ハルは自分の四肢がどういった形になっているか、もう分からなかった。聞き覚えのある声が何度も自分の名を呼ぶのだけがかろうじて聞こえる。エースだと思ったが、ヤマトのような気もしたし、ないとは思うがイーグルのような気さえした。
ハル!--。


「ハル! じゃあハルはどうなんだよ。もう一回警官目指すとか?」
ジェイの声だ。しかも脈略のないことを言い出す。こりごりだと思った、警官なんて。
「俺は……」
前に一度同じ質問をされたことを思い出した。いや、二度三度繰り返しからかわれた。それでもいつも、ハルはそう思い続けてきた。
「今も変わってねえの?」
馬鹿にしたようなレキの声がする。頷こうとして、やはり気恥ずかしさに襲われた。確かにダサい。こみ上げてくる笑いが、堪えきれず溢れた。
「ヒーローになりたい」
  正義がこの世のどこにもなくても、ハルが信じた気持ちを貫けるように、守れるように--。


「ハル!! 駄目だ!」
  激しい銃撃戦が終わって、ひたすらに減っていた時間が止まって、動き出したのは現実だった。ヤマトがいち早く駆けつける、その足音に茫然自失としていたユニオン側も動く。
  ヤマトは刀を抜いた。身長よりも長い刀身を鬼神のごとき形相で振りかぶる。
「ヤマト、終わりだ。下げろ」
イーグルの抑揚のない声に、ヤマトも怒りを顕わにして目を向けた。
  イーグルの後方に、多人数のユニオン制服が構えている。中佐クラスが大半のようで、中にはイーグルや対峙している側の頭と同じ大佐クラスも混ざっている。
  イーグルの言う終わりの意味を察して、ヤマトは刀を下ろした。後方に敵意も殺意も感じないことは見れば分かる。
「……連合政府はたった今崩壊した。この、時計と共にな。銃を下げろ、二度は言わん」
イーグルはもはや自身の銃を抜こうともしなかった。自分の後ろにいる人数は明らかに相手方の三倍、四倍以上でこの戦いの勝者を教えている。
  力無く跪いていく旧連合隊員たち、それをゴミでも見るかのような目で一瞥してエースが重い身体を引きずってハルの元へ歩み寄った。
「……ハル」
独り言のように呟く。
「すまん……ハル……」
独り言なのだと、確かめた。誰に対しての謝罪か、エース本人も分かってなどいなかった。反応はない。もう二度と、ない。引き金を引いた形のままのハルの手を、上から軽く握って拳を作ると優しく自分の拳と打ち付け合った。微かに、骨と骨が鳴る。
  エースはその拳を握り返した。まるで力の入っていない血まみれの拳は、ハルの体温をほんの僅かに留めているだけだ。エースが俯く。決して顔が見えないように頭を垂れた。
「すまねぇ……!!」

  時計は止まった。イレイザーキャノンも、ユニオンという体制も停止したのに、時は止まってはくれなかった。外を流れていく雲が、やみかけた雨が、それを突きつけてくる。
  血溜まりの中にいくつかの涙の粒が弾けてのまれた。