FINAL ACT ブレイズ


  クレーター深部に居る者で、律儀に時計を所持していたのはハイドレインジアのタイムキーパーをしていたジェイだけだった。サンダーは地上に辿り着いてからチラチラとジェイの腕時計に目をやるようになり、予告時刻の五分前からは惜しげもなく目を血走らせて見入っていた。しきりに念仏のような呪文を唱えている。
「も、もう無理だ……! 終いだっ!」
歯が全く噛み合わずガチガチと音をたてた。カウントダウンなど悪趣味としか言いようがないと思っていたのに、気付けば胸中で自らが残り時間を数えている。呆気なく一分をきり、三十秒、十秒をきる。最後の十秒は数えられなかった。
  無意味だと分かっていながらもサンダーは悲鳴をあげて頭部を抱え込む。そのまま十秒が過ぎ、三十秒、やがて一分近くが経過した。サンダーが恐る恐る立ち上がる。
「あれ……!? 撃ってこねえな……」
  クレーター周辺は実に穏やかである。冷たい北部の風が、クレーター内でソプラノコーラスしているだけで、その静けさを裂くような要素はない。
  サンダーは涙目のまま天を仰いだ。暗雲に支配されていた上空には僅かな切れ目が入り、そこから太陽光が這い出そうとしている。実に穏やかで、優しい。サンダーの口やら鼻やらから待っていたように吐息が出た。
「フッ……ハハハ……!! ダーーッハッハッハハハ!! 怖じ気づいたかユニオンめ!」
クレーター、どこまでも深い穴の淵で仁王立ちになり高笑いをあげるサンダー、レキとシオ、そしてサンダーの下僕Bがエレベーターから地上に出た際に一番に目にしたのがこの緊張感のない光景だった。
「何やってんだよ……」
「見ろレキ! もう十分以上経つ、どうやらユニオンのトップは相当なチキンだな! へっぴり腰が目に浮かぶようだぜっ!」
それはサンダー本人にも言えることなのだがレキはつまらなそうに鼻を鳴らすとサンダーの横をすり抜けてジェイの元へ走った。身体が地下に居たときよりも軽いのは、雨が止んだおかげだろう。
  ほんの数十分の間にジェイは見るに忍びないほど衰弱していた。背負っていた下僕Aがゆっくりジェイを地面に下ろす。
「ジェイ、行くぞ」
ジェイが頷いてみせる。レキがその腕を肩に回したときだった。
  ホイール音とブレーキング音が重なり合って響く。皆音の方へ視線を集中させた。黒い機影がだんだんと大きくなる。砂煙をあげて荒野を突き抜けてきたのは、ユウが跨る黒いバイクとごついつくりの四輪駆動、後者の運転席にはラヴェンダーが収まっていた。
  一際派手にブレーキ音が鳴った。立っているのがやっとのレキたちの目の前に停車する。
「乗って!!」
ユウがエンジンを吹かしながら切羽詰まった声で叫ぶ。レキはそれを見上げる形で座り込んでいた。
「来んなっつったのに……」
伝えのたのはラヴェンダーだから仕方ない。満足に動けないレキたちを見て、ラヴェンダーが車を降りた。そして次の瞬間には青ざめた。ジェイが握りしめるように押さえている自らの腹部は赤黒く染められている。
「ジェイ……なん、で……」
  弾傷があること自体不自然だ。いつものジェイの面影はそこには無かった。どこかで落としてきたままのヘルメット、無駄にうるさい明るい声、そして屈託のない笑顔、ジェイを形成していた全てのものが今は苦痛に歪んでいた。
「ジェイ! ……ジェイ!」
ラヴェンダーが崩れるように側に座る。レキがそれに合わせてジェイの身体を離しジープに駆け寄った。無理矢理積載されているレキのバイク“ギン”を引きずり降ろすためだ。ユウが黙ってそれを手伝う。
  レキの手は焦りと不安と、言いしれぬ恐怖で震えていた。それでなくても余力が無いのに、全く力が入らない。いつもは聞き分けの良い相棒が今日に限って反抗しているようで苛立った。
「ジェイ、すぐ、イリスに帰るから。我慢すんのよ、いい?」
  ジェイは目を開けようとしない。頷こうともしない。そのくせ締まりなく笑ってみせた。サンダーの下僕の背中もレキの背中も至上最悪に乗り心地が悪かったが、ラヴェンダーの太ももクッションは今世紀最高の寝心地だ。
「ちょっと……頑張りすぎたみたい」
消え入りそうな掠れ声で応えるジェイがラヴェンダーの混乱を助長する。全くの無意識のうちに目に溜まっていた涙の粒が、ジェイの頬に落ちて溶けた。
「馬鹿ね……っ!」
ジェイはそれが、雨の忘れ粒でないことをラヴェンダーの詰まった声で知った。こんなにすぐ近くで泣いている彼女を安心させる言葉が浮かばない。浮かんでも、声に出して上手く伝えられる自信がなかった。
  と、懐かしいエンジン音が耳に届く。この場にいる誰よりも元気に、咆哮をあげるギン。クロのエンジン音と調和すると不思議な安心感に包まれた。ジェイがラヴェンダーの膝に寝ころんだままギンの方を見る。レキが吹かすアクセルが、呼んでいるように思えた。
「……俺、ギンに乗る」
  ラヴェンダーが眉を顰めた。
「馬鹿言わないでよっ、あんたはこっちに……!!」
「ギンがいい。レキ……っ」
ジェイは居心地の良い彼女の腕の中から這い出してレキに懇願の眼差しを向けた。
「分かった」
ほとんど考えるという素振りも見せず、レキは簡潔に了承の意を口にする。ジェイもレキも、端から見れば異常だ。それなのに誰一人としてこの会話に、ジェイの願望とレキの決断に口を挟む者はいなかった。
「シオ、ユウの後ろに乗って。ラヴェンダーはあいつら、乗せてやってくれ、途中で捨てるなよ」
  意外な活躍を見せたにも関わらずこき使われた挙げ句、すっかりその存在を忘れ去れていたスパークスの面々。ラヴェンダーはさも今初めて気付いたかのように顔をしかめた。
  ジェイが大きなぬいぐるみのようにギンのシートに乗せられる。振り落とさないようにレキは自分のベルトをジェイに繋げた。血液で滑る。気にしている暇は無かった。
「飛ばす。しっかり掴まれよ」
レキはアクセルを握る手に残りの力を注ぐ。
  レキの背中にもたれかかりながら、ジェイはこれといった反応は見せなかったが胸中で失笑をかましていた。レキがギンに跨って飛ばさないことの方が稀なのだ、形だけしっかり掴まったポーズをとる。実際はレキのベルトが命綱だった。
「先導する! 行くわよ!」
ユウが車体を反転させて大きく弧を描く。後ろにしがみついているシオを目にすると、ジェイはやはり胸中でハラハラ心配などしていた。レキとユウが二人揃ってバイクを走らせるときに、安心だとか安全だとかの類の単語は消える。ジェイはそれを誰よりも知っていたが、誰よりも楽しめるのもまたジェイだった。
  クロの先導でギンとジープが同時に発進する。徐々に加速、血で肌にへばりついていた髪の毛が風に流されて後方に剥がれた。エンジンが回転する音や、ギアが入れ替わる音、風の音、騒音であるはずのそれらが音楽を奏で始める。レキの背中は相変わらずごつごつで決して質の良い枕代わりにはならないが、長年整備してきたギンのシートはどの高級椅子よりも座り心地抜群だ。奏でられるギンの音楽に聴き入りながら、タイヤの減り具合やマフラーの汚れを気にしたりしていた。
  ジェイはゆっくり目蓋を押し上げる。目を開けた世界が赤く輝いていた。雨上がりの夕焼け空は、美しく磨き上げられたオレンジの鏡だ。その光は雲を染め、空気を染め、大地さえ仄かに色づける。 ギンが反射する西日が眩しくて、ジェイはこじ開けた目をまた細めた。ユウが選んだ海沿いの道はジェイに強烈なデジャブをもたらした。
  あの日も夕陽の美しい暮れ時で、レキ、ユウ、ハル、そしてジェイの四人で夢を語り合った。叶えたいわけではなかった。生きる支えでも目的でもない、本当にただの思いつきの夢だ。それでもどこかジェイの胸の片隅にいつもそれはあって、ふとしたときに思い出しては少し優しい気分になれた。ヒーローになりたいと言ったハルが、二人で笑いあって誤魔化したレキとユウが、あの日の光景全て優しい夢だったのかもしれない。また来よう--そう言ったきり、それも叶わなかった夢のひとつになった。
  そして今、ぼんやり夕焼けの海を走っている。ちょっとした皮肉のようでもあったし、素晴らしい偶然のようにも思えた。
「ハルもいりゃあ完璧だったのになぁ……」
レキに、ジェイの小さな呟きが聞こえているはずもない。彼はがむしゃらにバイクを走らせていた。
  居心地の悪い背中は、それでもやはり温かい。ジェイの冷え切った体温に、分け与えんかという程に。
  雲が裂けた。その赤い目映い光を大地に下ろすために。小さな雲の隙間からこぼれた太陽光は海を一直線に照らす。天から下ろされたようでもあり、海から伸ばされたようでもある光は次々と雲を破って天地を繋げた。海がレンズのようにキラキラ光る。
  ジェイは思い出すと同時に合点がいって微笑んだ。
「空への光、か。すっげ……」
あの日ユウが、海から帰る直前そう口走ったことをジェイは知っていた。
  約束は果たされた。ひとつ最後に「夢」を見ることができた。ジェイは今を、素晴らしい偶然の方に入れてまた、目蓋を静かに閉じた。