SAVE: 10 さば、敏腕課長


 結局のところ、京が生死の境を彷徨ったのは僅か2時間弱の間だった。三途の川もお花畑もお目にかかることなく、真っ暗闇の中にひたすらプロペラ音が鳴り響くお粗末な臨死体験。ただ、意識がはっきりしていたのは豆塚に渾身の蹴りを入れた瞬間だけでその後のことはもやがかかったようにぼんやりとしか覚えていない。気がついたときには弾傷の本格的な処置やアイの精密検査は済んでいて、見慣れない病院の天井をぼんやり見つめていた。
 その後、謹慎だとか静養だとかの名目で京には一週間の自宅待機が命じられた。命の危険がこれっぽっちもないことは既に証明されている、となれば思いがけない休暇だと割り切るのがいいのだろうが、事態はそう単純に収束に向かってはくれないようだった。
 フローリングの床に直に置いた炬燵にもぐりこんで、京は見慣れた自宅の天井をぼんやり見ていた。無音である。テレビは点けない。昨日うっかりお笑い番組を見て、死にかけた。本当はスカート丈短めのお天気お姉さんに会いたいし、占いだってチェックしたい。しかし今はほんの少しの刺激や興奮が命取りなのだ。養生養生、とにかく養生。呪文のように呟いて超スローモーションで寝返りをうった。そこへ鳴り響く、ドアチャイムの音。
(誰だぁ……? 平日の昼間に)
応答しないでいると、間を置いて再びチャイムが鳴らされた。今度はノック付き。何故だろう、炬燵にもぐりこんでいるのに高速で悪寒が走った。
(その1、何かの集金人。その2、何かのセールスマン。その3……)
そこまで考えて、しゃくとり虫のように這い出した。万が一ということもある、いやそれよりももっと高い確率で「待ち人」かもしれない。掠れた声で返事をして、おそるおそるドアを開けた。
「ハァーイ京ちゃん、お・ま・た・せ~。ちゃんと自宅謹慎して──」
ドアの隙間から覗いた乙女の満面の笑顔を目にして、京は勢い良くドアを閉めた。否、そのつもりが閉まりきる寸前、何か分厚いファイルのようなもので阻止される。京は小さく悲鳴を上げた。全力でドアを押さえつける。
「呼んでません! チェンジ!」
「良い度胸じゃない……! 今すぐドアを開けないと、こいつがどうなっても知らないわよ」
ねじ込まれたファイル、その二十センチに満たない隙間から黒い紙袋が覗く。見たことのある、高級感溢れる素材の紙袋だ。
「そ、それは……まさか……」
「そーう! 月曜限定二十個販売、開店と同時に売り切れる『今昔堂のむかしプリン』! いいのね!? こいつがどうなっても!」
「乙女、お前! 卑怯だぞ……っ!」
動揺が無意識に腕の力を抑制したか、乙女は体当たりを決めて豪快にドアを開け放った。言うまでもなく、京は吹き飛んで玄関マットの上に惨めに崩れ込んだ。
「ったく、無駄な手間かけさせんじゃないわよ鬱陶しい。と、いうわけで、おっじゃまっしまぁーす」
冷ややかな視線と共にずかずかとあがりこむと、大ダメージの京をスルーしてキッチンへ向かう。勝手に戸棚を開けて勝手に薬缶と茶葉を取り出すと、鼻唄交じりに湯を沸かし始めた。
 京はその鼻唄に半ばうなされながら、腹を押さえて炬燵まで這った。しばらく、と言ってもほんの数分だ。薬缶の吐き出す蒸気の音だけが室内にこだました。
「……何の用」
 乙女が湯呑を二つ、盆に乗せて登場。そのタイミングを見計らって溜息混じりに呟いた。
「ご挨拶ねぇ、お見舞いに来た人間に『何の用?』」
「見舞いに来た人間は怪我人にタックルなんかしない……」
「あんたの往生際が悪いからでしょ? 自業自得。だいたい何で私が閉め出されなくちゃいけないのよ、チョー不愉快」
「何がチョーだよ……」
乙女はこれでもかというしかめ面を晒して、黒い紙袋から小振りの抹茶椀を取り出す。「むかしプリン」の名にふさわしい情緒あるパッケージだ。京の視線も自ずと乙女の手元を追う。出された茶と高級プリンに免じて、とりあえず一旦休戦することにした。乙女がどういうつもりにせよ、このプリンに非は無いのだ。誠意を持って美味しく召し上がらねばならないだろう。
 京は静かに手を合わせて数秒黙想すると、楽しげに揺れる黄白色の宝石を口元へ運んだ。
「宇崎部長の件だけど」
 プリンという名の幸せが喉元を通り過ぎていく。舌が、食道が、そして辿りついた先の胃が歓喜のおたけびを上げていた。たったの一口でお祭り気分である。さしずめ、デリシャス祭と言ったところか。
「報告に不備がなければ今回のことは不問になるはずよ。小雪ちゃんへの指示内容は宇崎さんの先走りが際立つし、何よりあんたたちが証拠品を押収したのは大きい」
 京は涙ぐんで俯いた。──良かった。生きてて、良かった。生きて帰って来なければ、この至宝のプリンを味わうこともなかったのだ。ブラボー、今昔堂。ありがとう、むかしプリン!
「ちょっと! 聞いてんの?」
「は!? 聞いてるわけないだろ! お前こそ黙って食えよ、今昔堂さんに失礼だろ!」
今日一番の真剣な顔で訴えてくる京に一瞬たじろいだ乙女だったが、すぐに持ち直して青筋を浮かべる。疲労の凝縮した溜息を深々と吐いた。
「やっぱり渡すのやめようかしら……」
「何だよ。ラブレターなら間に合ってるぞ」
「あっそ? 割とハイテクなラブレターだと思うけど、いらないならそれはそれで」
乙女は仕事用の分厚い手帳から裸のままのSDカードを取り出すと、将棋でも指すように軽快に音を鳴らしてテーブルの上に置いた。
「京と小雪ちゃんの証言を元に作った“ウルフ”の似顔絵。そこから想定し得る整形パターン、50種、暫定版。それと、たぶんほとんど京がファイリングしてると思うけど私の方で集めた資料。あんたのデスクは今うかつに触れないから」
 京が真顔でSDカードを凝視していると、視界の端に先刻ドアストッパー代わりにされた分厚いファイルが縦置きにされた。京のデスクにある黒いファイルほどではないが、それなりに年季が入っている代物のようだった。
 京はSDカードを摘まむとすぐさま立ち上がった。カーテンレールにぶら下げていたハンガーからワイシャツ(おそらくアイロンはかけていない)をもぎ取ると高速生着替えを開始する。
「ちょっと! どこ行くつもりよっ」
「どこってカンパニーに決まってんだろ! ここにSD対応の端末なんてあると思うか?」
「バカっ、謹慎中でしょうが」
「療養中っ! じゃあお前んちだ!」
 どうでも良さそうな用語を律儀に訂正して、京は巻きかけていたネクタイを放りだした。ほんの数分前まで死んだ魚、良くて登校拒否児のようなテンションだったが今は打って変わって、である。ひとまず療養を必要とする男の動きでないことは確かだ。対して乙女は何ら慌てることなく急くこともなく、先刻乗って来たばかりのタクシー会社にコールした。
「乙女」
「はいはいはい。急かさなくても出るわよ」
「じゃなくて。……恩にきる」
京はまた真顔で、というより無表情のままそれだけを口にした。乙女にしてみれば、この手の京は別段珍しいものでもない。表情に気を配らなくなるのも語気が強まるのも、余裕がないからだ。
「まだまだねー……」
「は? 何」
「恩にきなくていいからもう少し落ち着きなさいよ。タクシー来るまでにそのよれよれシャツにアイロンくらいかけられるでしょ」
 京は自分のシャツの皺をまじまじと見つめて小さく咳払いをした。一度靴を脱いでアイロンのスイッチを入れる。乙女がのんびり立ち上がって、湯呑を流しに置くのが横目に映った。

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