SAVE: 10 さば、敏腕課長




 京と違い、小雪に「特別な休暇」は与えられなかった。今回の件に関する彼女の行動は、元を辿れば宇崎の指示通りである。多少のミスや失態はあるにせよ、小雪に責任があるものでもなかった。更に言えば、当事者の一人が重傷で欠勤を余儀なくされているのだから、事後処理のほとんどは当然小雪が行わなければならない。セイバーズに入社して半年余りが過ぎたがここにきて初めて、報告書に追われるという経験をすることになった。
 それもあらかた済んで、本日ようやく通常業務に戻ることができた。と言ってもやはり京がいなければ率先してセイブに出ることもできない。いきなり訪れた空白の時間を埋めるために、何となくここへ来た。
(二階の、右から二番目)
 社員住所録を繰れば、浦島京介のアパートは容易に調べることができた。小雪の自宅とは真逆の方向だといつか聞かされていたが、確かにカンパニーを挟んでちょうど正反対に位置している。古くて壁も薄いが、住民がいい人ばかりだから気にならないだとか京が言っていたのをふと思い出した。 
 鉄骨むき出しの階段は、ただ歩いただけでカンカンと激しく音を立てた。来訪者は図らずともこれで自己主張をする羽目になる。全戸共通のインターホンみたいなものだ。
「出かけてる……のかな」
確認した通りのドアの前で立ち止った。灯りが消えていたが、一応インターホンを押した。人の気配のない室内に、チャイムが虚しく響く。数秒立ち尽くして踵を返す、そしてまたすぐに立ち止まった。社用ケイタイを取り出して、短縮ダイヤルにかける。耳元で鳴るコール音に連動して、ドアの向こう側からこもった着信音が鳴り響いていた。気のせいかと思い一度ケイタイを耳から離すも、着信音は確かにこの、京の部屋の中から聞こえてくる。こうなるとケイタイを放置して外出したか中で死んでいるかのどちらかだが、まず前者で考えて間違いないだろう。仮にも「謹慎」という名目がついている中で堂々と外出するあたり、不敵というか期待を裏切らない馬鹿だ。
 小雪はケイタイをしまうと、手に持っていた紙袋をドアノブに下げた。何かメッセージを残すべきなのかもしれないが何を書いていいのか分からない。結局そのまま帰社することにした。
(何を話すとか、そういえば考えて来なかった)
 ただできるだけ早く、会って話をしなければならないと思っていた。時が経てば、経った分だけ何かがうやむやになっていく気がしていた。しかしここにきて気が付いたのは、自分にはこれといって話題がないことだ。何かを伝えたい衝動より、何かを知りたい焦燥の方が強いのかもしれない。小雪が知っているのは「浦島京介について、自分は何も知らない」という事実だけだった。
 客人を見送るように、階段だけがけたたましく足音を響かせる。降り切ったところでジャケットの内ポケットでケイタイが震えた。
「はい、白姫」
『あー小雪さーん? 今どこー? 待機が多いから巡回に行けってー。荒木さんがー』
 シンの間延びした、とんでもなくやる気の無い声。その後方で名前を出された荒木が何か小言を言っているのが微かに聞こえた。
「じゃあ駅の方に車まわしてくれるかな。15分くらいで合流できると思う」
 間延びした応答が来るかと思いきや、数秒の間があった。
「シンくん? 聞いてる?」
『あー。うん、了解。じゃあロータリーの前に縦列するから』
 通話を終了し、シンは何か納得したような表情で椅子にかけてあったジャケットを手に取った。
「現在地じゃなくて、わざわざ駅か。おもしろいことになってきたような、若干おもしろくないような」
徒歩にせよ電車にせよ、藤和駅まで15分圏内で今の小雪が行きそうなところとなれば想像に難くない。気色満面の相棒の顔が目に浮かぶようだ。小雪と合流したらいくつかかまをかけてみても面白いかもしれない。含み笑いなんかをしていると、訝しげな表情で荒木に呼び止められた。
「戻ったら、白姫の分とまとめて日報は俺のとこに上げてくれ」
「え? ……あー、了解です」
シンの視線が、不在のままの課長席へ注がれた。荒木もつられて視線を移す。宇崎の命令系統に京と一緒になって盾ついてから三日、金熊の処遇はまだ決まっていない。こちらは有給休暇という名の謹慎処分を暫定的に下されているのみだ。金熊と京、威勢の良いのが一気に二人抜けると保安課は美術館のように静かである。
「……こればっかりは俺にもどうなるか分からん。分からんから、仕事はきっちりやっておく。そうするしかないからな」
 一瞬、面倒くさいオーラを全放出しているシンへの当てつけのようにも見えたが、荒木に特に他意は無いようだった。シンと小雪で手分けして京の後始末をするよりも、金熊の業務を一時的にでも肩代わりしなければならない荒木の方がおそらく何倍もきついはずだ。
「出動要請があれば、僕が出ます。たぶん小雪さんと二人でも何とかなるので」
「余計な気を回さんでいいから、とっととパトに行ってくれっ」
「あ、ひどいなー。普段全く回さない分をわざわざ荒木さんにシフトしたのに」
「それが余計に俺の心労を増やすんだよっ。行けっ、シッシ」
犬を追い払うような動作で満面の笑みのシンを追い払う荒木。何かの間違いがあって、もしあの空席に自分が座るような羽目になどなったら一週間持たずして病院行きだ。それだけは確信を持って言える。
「まぁ、どうなるか……分からんよな。本当に」
 自分を慰めるように独りごちた。
 荒木はあの日、金熊がセイバーズバッジを投げるところをその目で見ている。あれがポーズでないことは、あの場を共有した者なら分かる。金熊はそれなりの覚悟があってバッジを投げたのだ。──自分には、おそらくできない。何度シュミレーションしてみても、部下のために、信念のために、あるいは守るべきスプラウトのために立場を投げうつことが、自分には到底できそうになかった。その選択肢には、後悔という結果しかついてこない気さえする。
 荒木はそこまで考えてわしわしと後頭部を掻いた。考えると手が止まる。今はいつも以上に仕事をきっちりとやるべきときだ。もう一度自分に言い聞かせてパソコンのディスプレイを注視した。と、そこへ伸びる一本の腕。
「だから、早く行けって……白姫待たせてんじゃないのか」
 ディスプレイの前に、ブラック缶コーヒーが置かれた。荒木は苦笑しながら手を伸ばすと、そのままプルタブを引き上げる。シンは何食わぬ顔で手を振りながら、また気だるく緩く「いってきまーす」を言った。


「後悔?」
 黒い合皮の長椅子に腰かけて、金熊は軽快に笑った。片手には携帯電話。
「自分の選択に対する後悔なんてありません。それをしたら、私は私と、私の部下を否定することになってしまう」
 周囲はどことなくざわついていた。往来する人々が金熊の豪快な笑いに一瞬だけこちらを振り向く。それもやはり一瞬で、また興味薄に通り過ぎていった。この椅子には背もたれがない。せっかくの休みなのだから文字通りだらけていたかったが、結局いつも通り何かと背筋を伸ばしていなければならないようだった。
「……そうですか。いやいや、上の決定にこれ以上逆らうつもりはありませんよ。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
例え電話であっても御礼と謝罪は頭を下げろと教え込まれて来た。だから時と場所を選ばずにほとんど無意識に頭を下げた。目の前のカウンターで客の対応をしていた女性が一瞬こちらに視線をよこしたが、やはりそれも一瞬だった。
 自分のテリトリー以外の場所に一歩足を踏み出すと、他人は皆他人、基本的には無関心だ。周囲の人々は金熊とは別の時間を生きているように、自らに与えられた業務にいそいそと取り組んでいる。金熊は携帯電話を懐にしまうと、嘆息ついでに周囲を一瞥した。

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