SAVE: 10 さば、敏腕課長




 例の一名こと浦島京介は、夕暮れ時になってようやく自宅アパートに戻って来た。七時間近くパソコンのディスプレイに向き合っていたせいかアイが疲労を訴えている気がした。ふらふらと二階への階段を上がると、それに合わせて間の抜けた鉄骨音がワンテンポ遅れて響いた。
 そして目にする、自宅ドアノブに掛けられた不審物。などとおどけてみたかったが、普段やり慣れない作業に没頭したせいで全生命力をもっていかれている京に、一人ボケ一人ツッコミをやってのける体力はもはや残されていない。何となくの予想と共に紙袋の中身を覗き込んだ。駅地下で人気のパウンドケーキが入っているだけで、他にはなにもない。
「小雪……来たのか」
独りごちるのが精いっぱいだ。電話を、した方がいいだろうか。ぼんやりした思考でそんなことを思いながらポケットに手をつっこむ。
「あれ?」
自宅の鍵の手ごたえはあったが、携帯電話の手ごたえはない。ここでようやく機敏に動きだし、ドアを開けた。部屋を一瞥するとベッドの上でピカピカと光る青い物体がある。しまったなと思いながら靴を脱いだ。今の今まで携帯を忘れたことにさえ気付かなかった自分の迂闊さに驚いた。それだけ目先の目的に執心していたということになる。良い傾向ではない。
 新着メールを確認する。乙女から一件、会社から一件、どこともしれない営業メールが二件、いずれも緊急のものはない。小雪からのメールはなかった。その代わりに不在着信がある。
 京はディスプレイを見つめ、通話ボタンに指を伸ばそうとしてやめた。「今日の仕事はどうだった?」「どうって? 別にいつも通り」「俺抜きでうまくやれてるのか?」「そうねえ、いない方がうまくやれてるかも。ご心配なく」「またまたぁ、強がっちゃって~。シンはわがまま言ってないか?」「大丈夫。扱い方、慣れてきたから」「課長はまだ休暇中なのか?」── 通話ボタンを押したら、たぶんこういう会話になるのだろう。なってくれないと困る。しかし小雪が、このやりとりをするためにここへ来たとは考え難かった。だとすれば、このボタンは押すべきではないと判断した。
 携帯を再びベッドの上に放った直後、インターホンが鳴った。普段気にも留めない音を必要以上に警戒するのは後ろめたいことがあるからだろうか。
「浦島くーん。居ますかー? 青山ですがー」
続けざまに発せられた言葉に、力が抜けた。
「え、みちるさん?」
「あ、良かった。居た。乙女さんから書類を預かってるのー。今、大丈夫ですかー?」
ところどころ妙な敬語を混ぜてくるのは、隣近所を憚ってのことだろう。みちるらしい気遣いに思わず顔がほころんだ。
 ドアを開けると仕事帰りらしいハーフコートを着たみちるが、いつもと変わらない穏やかな笑みを携えて立っていた。
「すいませんわざわざ……乙女ぇ……」
「いいのいいの、帰り道だから。浦島くんも思ったより元気そうで良かった。……ひょっとして、どこか出かけてた?」
 ワイシャツにスラックスという格好で出てくれば普通そう思う。弁解に困ってしどろもどろしていると、みちるは子どもの悪戯を黙認するような苦笑いをこぼす。
「あんまり無理しないで早く体良くしてね。みんな待ってるから」
「み……みちるさん……」
温かい、あたたかすぎる。冷えた心と体には青山みちるだ。書類の入った茶封筒を差し出すみちるの手を必要以上にしっかり握りしめて(痴漢は犯罪です)、京はこみ上げてくる感情を抑えようとオーバーに顔を背けた。
「そうだ、金熊課長。来週から復帰できるみたい。上が辞めさせてくれなかったってぼやいてたけど、一安心だね」
「課長……そっか。そっかぁ~……」
この報告には思わず、心からの安堵の溜息が洩れた。みちるはおそらくこれを伝える意味もあってわざわざ訪ねてきてくれたのかもしれない。もしくは携帯に届いていた会社名義のメールはこの件だろうか、後で確認しなければならないなと思いながら壁にもたれかかった。
「それじゃあ、浦島くんもきちんと休養を摂るようにっ。いいですか?」
「あぁはい。ほんとに、ありがとうございますわざわざ」
受け取った茶封筒を振りながら微笑した。それを見て、みちるも安心したように手を振って踵を返した。
「あ、送りますよ?」
「浦島くん……実質謹慎中でしょ。お願いだから大人しくおうちに居てください」
「すいません……」
返す言葉もなく項垂れた。結局玄関前で別れて、カンカンと鳴る鉄骨階段の音が遠ざかっていくのを室内から見送った。
(何だろう……何か、誰かの、視線を感じた気がした……)
 だから京は知らない。みちるが階段の途中で一度立ち止まって、振りかえった理由を。
「さあて! 俄然やる気出てきちゃったもんねー! もうひと踏ん張りしますかっ」
 京は乙女に借りたノートパソコンに、例のSDカードを挿して再び検証を開始した。

 京はまだ何一つ、気付かずにいた。
 藤和市の平和な日常、その一角はこのとき音を立てて崩れていた。その引き金は浦島京介という存在そのもの。込められた弾丸は、彼の黒く厚い記憶と思い出。ファイルの空白部分が急速に埋まろうとしていた。
 京はまだ何一つ、気付かずにいた。

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