SAVE: 01 「よし」の笑顔をセイブせよ



 午前8時前。地下鉄のホームはこれから出社するであろう億劫そうなスーツ姿の男女と、その半分くらいの年齢にも関わらず既に億劫レベルが前者をはるかに上回る学生服の男女で、ほぼ埋め尽くされていた。
 白姫小雪は、電車を待つ列の中腹に立ち出社後最初の挨拶を反芻していた。まだ新しいパンツスーツのジャケットを着なおす。今後はもう少し早めに出社してもいいかもしれないな、などとひしめき合う人々の姿を見てぼんやり考えた。
「マジで? ありえないんだけどお」
 隣のレーンの先頭から素っ頓狂な声があがり、間髪入れず高らかに笑い声がこだまする。小雪はちらりとそちらに目を向けた。
「だから言ったじゃん! やばいマジきもいっ」
「えー、ちょっと見えないって。貸してよ」
見覚えのある制服を着た女子高生が数人、そのうちのひとりの携帯電話を覗き込みながら何やら大騒ぎしている。よくある光景だ。彼女たちのすぐ後ろに並んでいた同じ制服を着た女子学生が足を踏まれないように一歩後ずさった。連鎖してその後ろに並んでいた会社員らしき男性も後方に身をそらした。小雪はそれらを横目に見ながら、やっぱり明日からは15分早く家を出ようと心に誓っていた。否が応でも聞こえてくるギャルたちの実のない会話にうんざりしつつも結果的にはそちらにばかり視線が向かう。そのおかげか、小雪はその異変にいち早く気づくことができた。気づいてしまったというべきか。
(はい?)
視界で何かが反射して光る。ギャル集団の真後ろにいる女子高生の手元が反射源で、それが果物ナイフであることを認識するまで数秒を要さなかった。まさか出勤ラッシュの駅のホームでりんごの皮剥き記録に挑戦する物好きはいないだろう、証拠に彼女の鞄からりんごが取り出される気配はない。
(何考えてんのよっ、あの娘)
この際りんごでなくても構わない。願わくば今すぐ鞄からグレープフルーツを取り出して摂り損ねた朝食を、と決め込んでほしいところだったがそれはそれで迷惑だ。果汁を飛ばされるのはごめんである。くだらないことを考えている間に半開きだったスクールバックからナイフを握った手が引き抜かれようとしていた。小雪は並んでいたレーンから半歩横に飛び出した。
 女子高生の手が止まる。彼女の後ろに並んでいたうだつの上がらなそうな(あくまで小雪の主観である)スーツの男性が、素知らぬ顔でナイフごとその手を制していた。
「こういうのは――」
男の視線は未だ電車の来ないホームへと向けられたままだ。
「案外目立つ。君が君を大事に思うならやめといた方がいいな」
男は少しだけこちらに視線を向ける。おそらく小雪が踏み出そうとしていたことに気づいていて、その必要がないことを示したかったのだろう。彼の言動は事態を周囲に気取られないように万全に配慮されていた。小雪は身動きがとれず、片足を踏み出して隣のレーンに突っ込もうとした体勢のまま固まっていた。女子生徒はただただ俯いて赤面するだけだ。
 しかしながらこうしてこのまま事なきを得るはずだった事態は、その無駄に完璧すぎた隠ぺい力によってあらぬ方向へ進むこととなった。
「ちょっとおっさん! 何、愛海の手握ってんの。超キモイんですけど!」
 先刻まで携帯メールの打ち込みに夢中だった例のギャル集団の一人が声を荒らげた。男は反射的に両手を挙げる。これでは非を認めているようなものだ、小雪は思わず派手に天を仰いだ。
「は? 何、痴漢?」
「愛海、痴漢されてんの?」
 チカン――この単語の威力は強大だ。たちまちに列をなしていた人々がざわつき始める。それより何より、このギャルたちと果物ナイフの彼女――愛海という名前らしい――が知り合いだったことは衝撃的であり盲点だった。話の中心となった彼女が黙って赤面しているせいで、捻じ曲がった事態が余計に助長される。
「愛海何とか言いなよ。触られてただろ」
 見るに見かねて小雪が再び足を踏み出した。並んでいたレーンから完全にはみ出したところで、濡れ衣男がこちらに向けて唇に人差し指を当てた。次にその指で愛海の鞄を何度か指す。やはり男は小雪の存在に気づいていたようで、それならばとナイフの処理を一任したいようだった。
「誰がおっさんだっ。俺はまだ26になったばっかだ」
「ふざけんなよ、愛海の手握ってただろ、って言ってんの」
 小雪は静かに隣のレーン、当事者のはずが輪から一歩引いている愛海に近寄る。
「俺は触ってないし、そもそもおっさんじゃない」
「はあ? しらばっくれんなよ、あたし見たんだから」
「マジ、キモーイ。ありえなーい」
 男が濡れ衣の重ね着ファッションショーの餌食になっている間に、小雪は難なく愛海の傍らにつくことができた。愛海自身が隣に立たれてから気づいたくらいだ、我関せずを力いっぱい貫こうとしている周囲の連中が小雪の不審な行動を気に留めるはずもなかった。
「それ、没収ね」
できるだけ穏やかな口調を心がける。言いながら鞄に手を伸ばしたが、愛海は特に抵抗もしなかった。その代わりより一層顔を赤らめて半歩後ずさった。小雪は小さく嘆息しながら、ひとまず果物ナイフを自分の鞄に放り込んだ。
「いい加減にしろよこの痴漢! っていうか愛海、何突っ立ってんの? 早く駅員呼んで来なよ!」
 一番初めに言いがかりをつけてきたギャルが、ヒステリックに叫んだ。痴漢呼ばわりされ続けている男は万策尽きたのか、小雪が様子を伺っているのに気づくとすがるように視線をよこした。うまく切り抜ける自信があったのかと思いきや、どう見ても救助を求めている目だ。小雪の口から無意識に深いため息が漏れた。
「あのさ」
 小雪が声を張り上げた。一方的に罵倒され続ける痴漢(仮)と無関係を装おうとする被害者(やはり仮)と歳の割に腕組みポーズが似合いすぎる迫力の女子高生リーダーの三すくみ状態に、ようやく部外者が参入する形となる。
「私見てたけど、彼何もしてないよ。この娘が後ずさってふらついたのを支えてただけのように見えたけど」
「は? 何出張ってきてんのおばさん。ひっこめよ」
「おばっ……別にいいけど。じゃあ駅員じゃなくて警察かあなたたちの学校の先生呼ぼうか? 鞄から見えてる〝それ″もう少し上手に隠したほうがいいんじゃない?」
 小雪が顎先で指した彼女たちの鞄から、開封済みの煙草のパッケージが覗いていた。形勢が逆転したのを感じ取ったのか周囲も俄かにざわめき出す。
「藤和高校の制服よね」
ダメ押ししたところでタイミングが良いのか悪いのか電車が到着した。鼻濁音のアナウンスが響き、開いたドアから降車する人々がなだれ込んでくる。ギャルたちは舌打ち交じりに何度目かの「マジキモイ」をはき捨てると肩を怒らせて車両に逃げ込んだ。まるで置物のようにただ並んでいた人々も、何事もなかったかのようにいつもどおり電車に乗り込んでいった。
 まさか同じように澄ました顔で同乗するわけにもいかず、小雪と、朝から三度も女子高生に「キモイ」認定をくらった哀れな男は、ホームに突っ立ったまま鮨詰めの電車を見送った。愛海と呼ばれた加害者だか被害者だか最終的にわからなくなった彼女はギャルたちと同じ電車に乗り込んだのだろうか、既に姿は見当たらなかった。
 小雪はなんとなく、すぐ隣で立ち尽くしている男の方に視線を向けた。一日はこれから始まるはずだが彼は既に疲れきっている。小雪の視線に気づくとしまりのない笑顔を作った。
「助かったよ。危うく痴漢にされるところだった」
言いながら男が左手の平を上に向けて差し出してくる。握手を求められているのかと無駄に警戒した小雪だったが、すぐに求めているのが鞄の中のアレだということに気がついた。黙って果物ナイフを手渡す。

Page Top