SAVE: 01 「よし」の笑顔をセイブせよ


「もしかして警察の方ですか……? 違ったらごめんなさい。慣れているようだから」
男がナイフを受け取ろうとハンカチを出したのが気になった。小雪の予想が外れていれば極度の潔癖症だということも考えられたが、どう見てもこの男は用を足した後洗った手を手うちわで乾かしていそうなタイプだ。朝から既に緩んだネクタイを見れば偏見だとも思えなかった。
「残念ながら、しがないサラリーマン。このまま鞄に入れてたら物騒だろ」
男はそのまま器用に果物ナイフをハンカチでくるんだ。
「じゃあ君は? 実は婦警さんとか」
「違いますけど」
「それは良かった、警官はちょっと苦手でね」
「はあ……」
「ところで今日は仕事何時に終わるの?」
「……は?」
小雪が聞き返したときには既に男はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出して準備万端だった。
「せっかくだから運命の出会い記念にお名前とケイタイ番号を」
 沈黙を嫌うように電車の入り込みベルが鳴る。これに乗れば始業時間には間に合うはずだったがもはや小雪の視界にこの電車はあってないようなものだ。満面の笑みで携帯を握る男に思い切り派手なため息をお見舞いする。それから、これみよがしに丁寧にお辞儀をした。
「私急ぐのでタクシーで行きます。さよなら」
 男の後方で車両のドアが間の抜けた音をたてながら開く。小雪はそのまま振り返りもせず早足でタクシー乗り場に向かったため、笑顔のまま凝り固まっていた彼がその電車に乗ったかどうかは定かではない。


 白姫小雪、社会人一日目。初日はそういうわけでタクシー出社となった。行き先を告げられると運転手はバックミラー越しに後部座席――つまり小雪の方――を一瞥し、つけていたカーラジオのボリュームを気持ちだけ落とした。小雪が乗車するなりあまりにも不愉快そうな顔で頬杖をついて嘆息などしたものだから気を遣ったのかもしれない。本人もバックミラーに映った自分のしかめ面を認めてばつが悪そうに咳払いをした。
「管内のニュースをお伝えします」
スピーカーから控えめな声が聞こえる。感度はかなり良いようだったが、聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の音量では耳を澄ますことに神経を集中しなければならず、小雪は再び、半ば無意識に眉をひそめた。運転手の気遣いが見事に失策に終わる。
「明け方5時30分、藤和区東のコンビニエンスストアに男が刃物を持って押し入り、店内にいた買い物客など5人を次々と切りつける事件が発生しました。男はその後、店の商品を床に叩き落とすなど奇怪な行動をとり――」
「運転手さん」
小雪の唐突な呼びかけに運転手は返事こそなかったがすぐさまボリュームのつまみに指をかけた。機敏な行動はありがたいが、おそらく彼と小雪の意識は間逆にベクトルが向かっている。小雪は運転席と助手席の間から身を乗り出した。
「ボリュームあげて」
やはり返事はないが、白い手袋がそのまま時計回りにつまみを捻った。一瞬だけノイズを携えて、ラジオは乗車したときと同じくらいの音量になった。
「――およそ15分後、通報により駆けつけた〝スプラウトセイバーズ〟の職員によって捕り押さえられました。保安課担当者によると、男性スプラウトは重度の〝ブレイク〟状態にあり対話が不可能、治療の後、聴取を行うとされています」
「最近増えましたね、〝スプラウト〟の犯罪。藤和東のコンビニって言ったらあそこじゃないかな、ほら目の前に最近新しいマンションが建ち始めたでしょう」
運転手が堰を切ったように話し始めた。同時にラジオはニュースをやめ、ラッシュアワーの苛立ちを軽減するような爽やかな音楽を流し始める。
「そうですね……」
小雪は突如として饒舌になった運転手に適当な相槌を打つと、座席に深く座りなおした。しかしそれも無駄に終わる。タクシーはオフィス街の両サイドを通っている歩道にねじこんで停車した。やけに斜めに傾いたまま小雪は表示された代金どおりを支払ってタクシーを降りた。 
 ほんの数時間前の事件のニュースを聞けたことは、小雪にとって今日はじめての幸運だった。しかし思い返せばタクシーに乗らなければニュースを聞くこともなく、朝から妙な男にナンパされなければタクシーに乗ることもなく、鞄に果物ナイフを忍ばせていた女子高生をとめなければその男と関わることもなかっただろう。すべては繋がっている。今日はそれほど悪い日でもないようだ。小雪は降りた先の飾り気のないビルを見上げて、それから念押しのように脇にある社碑に視線を移す。スプラウトセイバーズカンパニー――それが目の前の会社の名前であり、今日からの小雪の勤務先であった。唇を真一文字に結ぶと、小雪は早足で入り口自動ドアを潜り抜けた。
 思ったとおり社内はどこも慌しかった。今朝の事件の処理と対応に追われているようでもあったし、これが常時だというようにどこか慣れている節もある。自動ドアはひっきりなしに開いたり閉まったりしていて、その度に汗だくの男性がネクタイを緩めながら走り去ったり、駆け込んだりしている。その内に開きっぱなしのような状態になった。そこらじゅうで携帯電話での会話が飛び交い、中には通話しながら資料に目を通し、缶コーヒーを飲みながら時計をちらちら気にしているつわものもいた。
 圧倒されている場合ではない。小雪はできるだけ動揺を顔に出さないように努め、受付に名前を告げた。
「お待ちください。保安課長に連絡を取りますので」
受付嬢はこの騒がしさに慣れているようだった。つまりは今朝の事件で多少の割り増しはあるとはいえ、この保育園の休み時間のような破滅的な無法地帯(言い過ぎかもしれないがそれが入社初日の小雪の素直な見解だった)が常だということだ。
「受付です。金熊課長宛てに白姫小雪さんお越しですが」
「おおっ、早いな。や、もうそんな時間か! すぐ下りるからそこで待つように伝えてくれっ」
受話器から漏れた声は、受付カウンターの半径二メートルには裕に届く大きさだった。この対処にも受付嬢は的確で、平然とした顔ですばやく受話器を耳から遠ざけた。
「と、いうことです」
「はあ……」
小雪は苦笑いしながら、鼓動が早まるのを感じた。
 保安課はスプラウトセイバーズの花形とも呼べる部署だ。〝スプラウト″が関わる事件、事故に対応し被疑者を検挙するのはもちろんのこと、それらを未然に防ぐことも保安課に課された重要な役割である。
 エレベーターから降りてきたのは、白髪交じりの頭を嫌味のない程度に緩くオールバックにした壮年の男だった。恰幅は良い。何かスポーツをしていたのだろう、もしかしたら日頃から鍛えているのかもしれない。小雪は彼に向けて自分から一礼した。金熊とは何度か電話で話している。目の前の男は先刻の電話での馬鹿でかい声の主よりも随分落ち着いて見えたが、彼が普段は穏やかな口調で、柔らかく話をする人物だと知っていた。金熊は小雪に気づくと、馴染みの居酒屋に入ってきたように軽く手を挙げた。紳士なのか、気さくなのか掴めない男だ。
「白姫君か、いや、待たせてすまんな。朝っぱらからちょっと面倒なのが暴れてくれてね」
「ニュースを聞きました。かなりブレイクの状態がひどいとか」
「おお、流石だな。まあ後は法務課だのシステム課だのの仕事になってくるから、あらかたこっちは片付いたと言っていい。とりあえずここじゃ落ち着かんから課に上がろう」
小雪は短く返事をし金熊の後に続いた。なるほど今ロビーを右往左往しているのは法務課だのシステム課だの、そういったところの部署らしい。喧騒から避難するように二人はエレベーターに乗りこんだ。
「空手の有段者だったかね」
心底ほっとしたというように金熊は5階のボタンを押すなり長いため息をついた。

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