SAVE: 11 浦島介に関する例の事件

─Part.1─


 ──こんなことがあり得るのだろうか、いやあるはずがない──
 釣銭150円とレシート、そして商店街の粗品として配られているメモ帳の一枚が、四つに折られて京の手の平に乗せられた。手首に買ったばかりの出来立て生姜焼き弁当の袋がぶら下がっている。京は目を点にして、自分の手の上と眼前の女性とを見比べた。
「それじゃあ連絡……えっと、待ってるから」
 何かしらの応答を返す前に女性はそそくさと店の奥へ隠れてしまった。この後の販売接客はどうするのだろうだとか、割にどうでも良い疑問が頭をかすめる。
 不意に視線を感じて、京は高速で振り返った。誰かに見られていた気がする。しかし視界を行き交うのは昼食を求めるビジネスマンと、一足早く夕食の総菜を手に入れようと右往左往する主婦くらいのものだ。京は視線をもぬけの殻になった弁当屋のカウンターに戻した。そして魂の抜けたような表情で店の奥をいつまでも見つめていた。
 11月中旬、時折まだ生ぬるい風が吹く藤和市、うららかな正午の商店街。本日も管轄内は平和です。


 生姜焼き弁当(350円)を片手にカンパニーの入り口自動ドアを通り過ぎた。
「浦島さん、お疲れ様です。本日から復帰ですか?」
京が毎日のようにくだらない世間話をふっかけていた受付嬢の一人が、穏やかな笑みで出迎えてくれた。そう、あり得ない事態に腑抜けている場合ではない。ここはスプラウトセイバーズカンパニー、自分はその花形部署である保安課の一員だ。
「お待たせしましたっ! 浦島京介、本日より完全復帰いたします!」
得意気にガッツポーズを作ると、下げていた生姜焼き弁当(350円)の袋がぶらぶらと締まりなく揺れた。隣の受付嬢も微笑んでくれる。
「大丈夫です、私たちは別に待っておりません。それより荒木主任が待ち焦がれていらっしゃいましたよ。早急に処理してもらいたい案件があるそうです」
受付嬢は整った笑顔を一片も崩すことなく慣れた様子で京をあしらった。大丈夫、哀しくない! ──京にしてみてもこの対応は慣れたものなのだ。涙目になるのは条件反射であって傷ついているわけではない。隣の受付嬢が声を殺して笑い始めたことも、気になんてならないのである。
「了解! 行ってきます!」
「はい、いってらっしゃいませ。それと受付周辺はお静かにお願いいたします」
鉄壁スマイルのまま受付の二人は揃ってお辞儀をした。それを尻目にスキップ混じりでエレベーターに乗り込む京。先に乗り込んでいた生活相談課の職員が一瞬だけ半眼になったが、こちらもやはり慣れた様子で知らんぷりを決め込んだ。無言の空間に京の鼻唄だけがこだまする。
 5階、エレベーターの扉が開くなり抜群のタイミングで荒木が走って来た。走って来たのである。ようやくの熱烈の歓迎に京も頬がゆるんだ。
「浦島ぁ! よく来た! もうほんと、待ち焦がれたぞ!」
「荒木さん……っ!」
「あ~! そういうの後でな! 溜まってるから! お前の、お前にしかできない、お前のための仕事が!」
「はい! お任せください!」
「課長! 青山! 浦島捕獲しました! シン、ドア閉めろっ。いいか、終わるまで絶対逃がすなよ!」
 廊下の端から荒木が叫ぶと、やけに機敏な動きでみちるが迎えに来てくれた。指示の内容は何かしら物騒だが皆が自分を必要としてくれていることだけはひしひしと伝わる。
「おー! みちるさん、ただい──」
「おかえり、浦島くん! さ! 仕事溜まってるから、頑張ろうねっ」
 「ま」の字を言い終える前にみちるが笑顔で背中を押す。そうそう、これ。この緊張感と慌ただしさ、飛び交う怒号。これぞ保安課である。みちるの強引な後押しで踏み込んだ保安課、それを見届けるとシンが迅速に扉を閉める。
「いやー。お待たせしましたー。浦島京介、完全回復につき本日より業務復帰いた……し、……ます……」
 課長が笑顔だ。城戸はいつも笑顔だが、今に限ってはとりわけ爽やかな笑みを携えている。小雪はどこかよそよそしいながらも周りに合わせて口角を上げている様子だ。後方ではみちるが、シンさえも、皆持てる全ての力を使って笑顔を作っていた。しかしながら、京の視線はもはやそれらを捉えてはいない。自分のデスクにジェンガのように積まれた書類の束にくぎ付けである。ちらりとまた、背中を振り返る。みちるが無言でガッツポーズを作っていた。
「課長……俺の、仕事って」
「それだ。整理しといてやったぞ。上から順番に期限が近いやつだ」
「一番上は今日の二時までだからっ。必要なものはデスクの右端に揃えてあるからね」
みちるが押してくれた背中が痛い。励ましというより「とっとと行け」の意味合いが強い気がするのは被害妄想だろうか。京はとぼとぼと自分のデスクの椅子を引いた。机上右端に高級緑茶“しのぶ”の缶が三つ、栄養ドリンクが三本、社用フラッシュメモリが二本並べてある。座りながら書類ジェンガの一番上を手に取る。作文用紙だ。タイトルにやたらに達筆で「反省文」とあらかじめ記されている。
「課長……これ……」
「件の始末書は俺と荒木が提出した。で、お前はそれだ。手書きでって指示があったからそのようにな」
「……弁当、食べてからでも」
みちるが京の手からすかさずビニール袋をもぎとる。
「浦島くん。それ、二時までだから。終わるよね?」
有無を言わせないみちるの笑顔に、京は無言で頷くしかなかった。書類ジェンガを見上げる。この紙一枚一枚の確認と最終処理はみちるがするのだ、やるしかない。京は用意されていたシャープペンシルを握りしめた。
「全力セーイブ! 俺の書類と生姜焼きー!」
「あーうん、いいぞ、その調子でな」
 アイに炎が宿る。やる気という名の炎だ。それを軽く受け流す金熊、彼も彼で休暇中に溜めこんだ仕事が残っている状態だ。いちいち京の一人芝居に反応してやる余裕は無い。みちるはそれら書類の最終処理を随時行わねばならない。従って、本日の保安課はゆとりと安らぎ、温かい珈琲とは無縁の部署である。
「全力セーイブ!」
「いいぞーうらしまー。手ぇ動かせー」
京のデスクでシャープペンシルの芯がカツカツと音を立てる。金熊のデスクでキーボードのタイピング音がカチャカチャと鳴り響く。しばらくそんな時間が過ぎた。
 そうして午後二時──。
「お疲れ様」
 生きた屍と化した京(魂らしきものが口から放出されている)の元に、人質にとられていた生姜焼き弁当と、湯気の上がる温かい湯呑が置かれた。そしてみちるの、いつもの笑顔。
「みぃちぃるぅさぁ~ん」
「のんびりしてる暇はないんだからね。終業までに手続きが必要なのがあと三件あるんだから」
 反省文なる駄文はつい今しがた、みちるの手で本社にファックスされた。本当は期限二十分前に完成はしていたのだが、誤字と脱字と小学生並の文法間違いのせいで校正に時間がかかったのである。
「あ、それと三時になったらシステム課に行って検診を受けてね?」
「あー、アイチェック。了解りょうか~い。復帰早々分刻みのスケジュールだなねぇ、これ」
言いながら割り箸を軽快に割る。弁当を取り出していると、シンが意味深な笑みを浮かべながら椅子ごとこちらに滑って来た。ちなみに二人の間の席の小雪は、自分の仕事を片づけて早々に食堂に向かったため不在である。

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