──この15年間、自分はたった一人をセイブするため、その人の心と尊厳を取り戻すためだけに生きてきた。その手段としてセイバーズに入り、ウルフを追い、プリズム狩り事件を追ってきた。手段は変わる。時と場合によって変えなければならない。それがたまたま運悪く、一番残酷なものになってしまった、というだけのことだ。
京が差し出した手に怜奈は黙って銃を乗せた。その銃を彼女のアイに向けて構える。一ミリたりともずれないように、その頬を左手で支えた。怜奈は黙って目を閉じていた。まるでファーストキスを待っている少女のようだった。
「……おやすみ。怜奈」
そのキスは一瞬、轟音と痛みもやはり一瞬だ。アスファルトに飛び散る鮮血の、やけに生々しい音だけが尾を引いていた。崩れ落ちる怜奈の身体を京は抱き寄せるように支えた。
誰かの号令が耳をかすめて、影に周りを取り囲まれた。本社の人間はやることが迅速だなどと心中で皮肉を吐く。それが今はありがたくもある。ぼんやりした意識の中でいつの間にか手元は空になり、怜奈の重みやぬくもりが奪われていった。
立つのも歩くのも億劫だと思っていた矢先に、京の身体は何かに乱暴に引きずられてパトロール車のボンネットの上に投げ捨てられた。言うまでもなく金熊だ。何かを口にする前に、平手打ちを食らった。
「お前は、あと何回上にたてついたら気が済むんだ」
右頬がひりひりと痛む、のみならず口内のどこかが切れたらしい鉄の味が広がった。金熊が怒鳴らないときは怒りの絶頂の合図だ。殴られた頬を押さえる間もなく、胸座を掴まれた。このままタコ殴りにされるのだろうか。この尋常でない様子を視界に入れて、シンと小雪が駆け寄ってくるのが見えた。
「お前の引いた引き金は……この先一生お前自身を苦しめる! あんなもんセイブでもなんでもない、そんなもん建て前だろうが!」
「分かってますよ、そんな怒鳴らなくても」
「分かってないから言ってんだ!」
金熊が声を荒らげたことで逆に京は安堵した。
「俺がやってなきゃ課長か本社のみなみなさんがやったわけでしょ。二度も目の前で殺されるのは御免です。俺の神経も流石にそこまでタフじゃない」
京の力ない笑に金熊は言葉を詰まらせた。振り上げた拳が行き場を失くして頭上で震えている。そんな青筋の浮き出た金熊を見て、京から自然に笑みがこぼれた。笑顔が消えないうちに血のついたスーツの襟から丁寧にセイバーズバッジを外した。
「……何のつもりだ」
京が差し出した手のひらの上でバッジが転がる。金熊はそれを無表情に見ていた。
「辞めたいのか」
「いや、だって」
言いわけの常套句を口に出したところで京の視界に無数のお星様が飛び散った。脳天に隕石が落ちたような激しい衝撃、今度はほとんど反射的に頭を押さえた。乗せていたバッジがころころと地面に転がる。金熊の渾身のゲンコツは前後数秒間の記憶が吹っ飛ぶくらいの威力があった。
「お・れ・に、全責任押しつけてとんずらかこうなんていい度胸だな! 来い! このまま直接、部長に頭下げにいくぞ!」
金熊は唾を撒き散らしながら声を張り上げると、そのまま京の襟首をひっつかんだ。そのまま引きずって社用車にぶちこむ。自ら運転席に乗り込むと、一部始終を呆気にとられた状態で見守っていたシンと小雪に向けて窓から顔を出した。
「桃山、白姫! ぼやっとしてないでカンパニーに戻って報告書上げろ! 戻ったら全員説教だ!」
金熊の勢いとは反比例してパワーウィンドウはのんびりと閉じていく。急発進する社用車の中で京は今さらながらに殴られた頬と頭を撫でまわしながら、言い表しようのない疲労感に襲われていた。それは睡魔に変わって京を眠りへと誘う。必死の抵抗は功を奏さず、心地よく揺れる車内で望まぬ仮眠をとる羽目になった。
今レム睡眠など摂ったら絶対に悪夢を見る。ほとんど確定事項のように思われたその予想は、意外にもあっさり外れてしまった。別段素晴らしい夢というわけではなかった。ただそこには痛みを伴わない懐かしさとぬくもりがあった。安全運転の金熊の車の中で、京は子どものように安心してにやにやと夢の世界に身をゆだねた。
「二人暮らし、か。“恋人”ではないよなぁ……。被害者の弟、っていう扱いになるのか?」
スプラウトセイバーズ本社、保安課第一聴取室。若かりし頃の金熊が、対面した少年を前に困り顔で頭を掻いた。少年は短く「わかりません」とだけ答えて、俯くでもなく金熊を見返すでもなく、どこか遠い宙を見つめていた。
金熊は少年の頭に手を乗せ、いましがた口に出してしまった質問を悔いる。自分の見識の狭さを恥じた。
(家族ってのはもっと……多様な形で存在するもんだよな)
少年は、プリズム狩りの被害者・新堂怜奈と同居していたスプラウト、唯一の遺族であると同時に第一発見者だった。それだけなら事はそう複雑ではなかったのだが。
「思い出したくないかもしれないが、もう一度、話してくれないか。京介くんが見た犯人の特徴について。大柄、黒髪短髪、プリズムアイのスプラウト。このほかどんな小さいことでも構わない」
金熊のバディを務めている飛田が横から割り込んできた。少年、浦島京介はかれこれ一時間、こんな調子でぼんやりしていてまともに会話をしてくれない。飛田がしびれを切らすのも無理はなかった。苛立ちが見え隠れする相棒を制し、金熊は京と視線の高さを合わせるべくしゃがみこんだ。
彼は犯人と鉢合わせしている。しかも凶器のひとつと思われる銃を使い犯人の額に風穴も開けているという。ここ数カ月連続多発している「プリズム狩り」事件において、犯人と接触している唯一の存在だった。
「……お腹すいてないか。おっさんとで悪いけど、なんか食べに行くか」
「金熊さん」
「いいだろ。彼を問い詰めたって即解決するって事案じゃないんだ。どうだ、京介くん。なんか食べたいもの、あるか?」
食べ物で釣ろうというのも浅はかな手だったが、そのときの金熊にはそれくらいしか名案が浮かばなかった。このまま京を聴取室に缶詰にしても良い結果が出ないだろうことくらいは飛田も自分も承知しているところだ。
「……とんかつ」
意外にも、京の口からはそう待たずしてリクエストが飛び出した。セイバーズ二人は一瞬目を丸くして顔を見合わせる。金熊は頬を緩めて、また京の頭に軽く手を乗せた。
「よしっ、じゃあ行くか。かつなら美味い店を知ってる」
金熊は京の手をひいてセイバーズ本社ビルから抜けだした。昼時ということもあり通りにはスーツ姿の会社員や学生らしき小団体が多い。その中で十歳と三十代の男コンビは当然のことながら異質な存在であった。歩きながら金熊は、この界隈は何が美味いだとか、どこそこの店主は気前がいいだとか他愛の無い話を熱心にした。その中でもこの定食屋は美味い上に口が固くていいのだと、何か重大な秘密を暴露するように声をひそめて話した。
「いらっしゃい。お、金熊さんめずらしいね。小さい相棒連れ?」
のれんをくぐるとすぐさま店主が声をかけてきた。冷水の入ったガラスコップを二人がついたテーブルに置く。談笑の合間に無造作に置かれた灰皿を、金熊はやんわりと断った。
「しかしピンポイントできたな。好きなのか、とんかつ」
店主が厨房に去ってから金熊が向き直る。お冷にちびちび口をつけながら京はゆっくりかぶりを振った。
「あんまり食べたことない。怜奈は、揚げもの得意じゃなかったから。……他の料理は何でもおいしかったけど」
「うちの嫁さんと同じだなぁっ。あれだろ? べちゃっとしたの出してくるんだろ?」
金熊が悪戯っぽく笑うのにつられて、京は少しだけ笑みをこぼして頷いた。金熊は自宅で晩酌でもするようにどっしり落ち着いて、京の空になりつつあったコップに冷水を注いだ。
「怜奈さん、他にどんな料理が得意だった? 料理でなくても好きなものとか苦手なものとか、何でもいい。聞かせてくれないか?」
「それ聞いて、どうするの」
「どうもしないさ。俺も一緒に覚えておこうと思ってな。……そうしたら、君が怜奈さんの話を誰かにしたくなったときに困らないだろ」
「それって、スプラウトセイバーズの仕事、なの」
「うん? うーん、どうかな。そうってわけじゃないだろうな……。なんだ、駄目か? だったら京介くん自身の話でもいいぞ」
香ばしいかおりと共に揚げたてのとんかつ定食が二つ、机上に並べられた。待ってましたと言わんばかりに味噌汁椀の蓋をとりさる金熊。温かな湯気が二人の視界で立ち上る。京も倣って味噌汁をすすった。怜奈のつくるそれとは違う、けれども心が温まる味だ。
さっくりと揚げられたとんかつを頬張りながら、京はぽつぽつと怜奈のことを話した。合間に自分の話も。怜奈の得意な歌のこと、趣味の悪い鼻唄のこと、普段はどこまでも田舎くさいのにステージに立つと誰より華があること。面倒見がよく、曲がったことが嫌いで、だからすぐ揉めごとを起こすこと。誕生日もクリスマスも、記念日と名のつくものは片っ端から二人でお祝いすること──。金熊は時折相槌を打った。それ以外に質問を継ぎ足したりしない。そうしなくても京の口からは後から後から怜奈の話が飛び出した。
「じゃあ幸せだったんだな、二人とも」
とんかつの最後の切れはしに金熊は豪快にかぶりつく。途端に京が口をつぐんだ。かつの衣を咀嚼する音だけが軽快に響いた。
「そうだったのかな。わからない」
「俺にはそう聞こえたよ」
金熊はそう言うと尻ポケットから財布を引っこ抜きながら席を立った。
20分に満たない短い昼食時間だった。金熊にはこの後も仕事が山積していて、のんびり一服しているような時間はない。声を掛けられて京も金熊に続いて店を出た。
「必ず犯人つかまえるから」
店の軒先で金熊は、短くそう言った。京のアイに決意の眼差しが映り込む。このとき金熊は本気だったし、京にもそれを疑うような気持ちはなかった。しかし不安はあった。
「必ずって、簡単に言うんだね」
「おまっ! ……いや、それはだな。そういう意識でっていう意味で、いや違う。必ずは、必ずだ」
「もし捕まえられなかったら……俺は、どうしたらいいですか」
口に出してようやく、京は自分は何を塞ぎこんでいたのかを知った。爆発的な哀しみや怒りや、それに付随していた寂しさが去った今、京の心中を支配していたのは漠然とした虚無感だった。拠り所がない、しるべがない、何とか立っていてもどこへ向かいどっちへ進めばいいのかが分からない。金熊になら、それを聞いても良いような気がした。
決め台詞に水を指された金熊は一瞬肩を落とし溜息なんかをついてみせたが、すぐに背筋を伸ばし歩き始めた。
「高校出たらうちに来い。俺がセイバーズとして鍛えてやるから、君自身の手で奴をセイブすればいい。……その前に俺がセイブしてるはずだけどな」
これも金熊は本気だった。既に渡してあった名刺に加えて、自宅の電話番号を書き添えたものを京の上着のポケットにねじ込む。
京がスプラウトセイバーズの門をたたくのは、これから約八年後のことである。