「あとは右……!」
トンネルの出口、中央線の上、道路の真ん中でシンは女性スプラウトに馬乗りになって、容赦なく右腕の関節をとった。加減している場合ではない。力を込めても怜奈は悲鳴どころかうめき声ひとつ上げなかった。
パン! ──代わりとばかりにシンの耳元で響いたのは、またも銃声だった。怜奈の左手には三丁目の銃が握られていた。シンの首筋に一直線に赤い火傷が走る。
「冗談きついよ、これ」
「シィン! 離れろ!」
小雪にしては野太い絶叫がトンネル方面から反響してきた。シンはその指示に従う他なかった。突き出された左手を避けるようにアスファルトを転がる。仰向けのままの怜奈は、覆いかぶさっていたシンがいなくなって開けた視界に二度三度、事務的に引き金を引いた。弾がつきてもなお、空撃ちを繰り返す。赤黒く染まりはじめた空をカチカチという音だけで撃ち抜き続けた。
その視界をまた影が覆う。影は熱の冷めない銃身ごと怜奈の左手をとっておもむろに引き起こした。
「京、なんで──」
シンの質問に答えられる冷静さを、生憎彼は持ち合わせていなかった。土手の手前で発見したシンたちが乗って来た社用車、それを頼りにここまで全力疾走してきた。二人の身を案じてそうしたのだと思う。そのはずが、今ここに来て彼は目的を見失っていた。整わない呼吸と並行して混乱だけが渦巻く。
「俺のことが、分かる……?」
京は最後の賭けとして──負けると分かっていたそれとして──そう問いかけ、彼女と視線を合わせた。否定をしてほしかった。誰でも良い、根拠もなくて構わない。ここにいるのは新堂怜奈に良く似た別人だと言ってほしかった。
何かを言おうとして僅かに震える女の唇を見ながら京は思い出していた。15年前のクリスマス、路地裏で今と全く同じことを願っていたことを。
「怜、奈」
喉の奥から絞り出すようにその名を呼んだ。その瞬間、よく意味のわからない涙がほとんど無意識にこぼれおちた。そしてよくわからない哀しみと痛みと自責の念が一気にたたみかけてきて、京から言葉を奪った。
京と怜奈は数秒間互いに微動だにしなかった。しかし、怜奈は何かのスイッチが入ったかのように突如銃口を京へ向けた。アイに向けて構えられた銃を、京はトリガープル直前で腕ごと振り払った。こめかみのすぐ横を銃弾が通り過ぎていく。熱と音に片目をつむった。少し開いた怜奈との距離を再び詰める。抱きすくめるようにして怜奈のアイを見続けた。
「怜奈、お前……どんな気持ちで」
──この15年間、自分は何をやってきたんだろう。
「どんな気持ちで、人を殺した?」
──誰のために、何のために、何をどうしたくて生きてきたのだろう。
足元がふらつく。信じてきた、すがりついてきた何かが音を立てて崩れて行く。
怜奈のプリズム・アイは京のよく知るそれではない、明らかに別人のものだった。であれば、何故このスプラウトは京の問いにイエスと答えるのか。
「京……わたし……」
何故銃を構えたままその名を口にするのか。混乱は最高潮に達しようとしていた。否、混乱しているふりに過ぎない。セイバーズとしての知識と経験は確かに京に真実を突き付けていた。記憶は、それに勝る心情や思いはアイというシステムひとつに集約されない。だから今この腕の中にいるのは紛れもなく新堂怜奈、重度のブレイクスプラウトだ。
「怜奈。俺の言うことが分かるなら、銃を置いて。誰も君を傷つけたりしない」
「ちがう、ちがうの。わたし、ただ……ふたりでもういちど……マタふたり? で? だからそのために……デキルコト……」
それが俺の周囲の人間を排除することだったのか、という問いを京は飲みこんだ。怜奈の途切れ途切れの言葉は京の、自分でも知らず知らずのうちに隠してきた本心そのものだった。
「できることは、俺がやる。大丈夫。また二人で、クリスマスを祝おうな」
誰の仇でもなく何の正義のためでもなく、京はただ「また二人」になりたかった。そのためにできることを手探りでやってきた。しかし倫理の上でそれが叶わないことを、京は当に知っていた。時間はそう残されていない。怜奈の声は歪み始めている。
「でも。たくさんのコワイ人たちが、ワタシタチを殺そうとしているデショう?」
(……なるほど、そういう理屈か)
「守らなきゃ、わたしが、ソイツラカラ、京ノこと。わたしはあなたの──」
京は静かにかぶりを振った。
「君は俺の、とても大切な人だから。……今度は何としても守る。守ってみせる」
ほど近く、シンたちが見守る側から複数のエンジン音が聞こえてきた。京はここへ来るまでに金熊に応援を要請している。金熊はそれに応え、こうして本部のパトロール車までかき集めてくれたのだ。響くいくつものブレーキ音、そのドアを豪快に閉める音、そして銃火器を構える玩具じみた音。
「浦島ぁ!! そのまま離れろ!」
緊迫を演出する全ての音を遮って金熊の声は花火のように弾けて聞こえた。何とも間の悪い登場だった。
「浦島! 聞こえんのか! 距離をとれと言っている!」
「末期ブレイクスプラウトです、俺がセイブします!」
青筋を立てた金熊に負けじと声を張り上げた。その叫び声に呼応して、怜奈が言語とは言い難い金切り声を上げる。緊急を知らせるサイレンのようだった。京は思わず後ずさって耳を塞ぐ。その隙を突かれ、再び銃口を向けられた。矛先は自分ではない。視線の先に、ほとんど棒立ちのシンと小雪が映った。
「シン! もたもたすんな小雪連れてどっか離れろ!」
京は怜奈を止めるより先にその指示を出した。だから怜奈を制するために金熊が、金熊が引き連れてきた本部の人員が皆揃いも揃って銃口を彼女に向ける。発砲指示はいとも簡単に出された。京は半ば無意識に怜奈の上に覆いかぶさっていた。
運動会の開会式みたくパンパンと何度も破裂音が鳴る。京と怜奈の頭上で。
銃声が止み、辺りが静かになったかと思いきやパトロール車の間から銃を構えたままの人影が、単独で躍り出てきた。
「京介! 首になりたいのか! 命令を聞け、ブレイクスプラウトから離れろ!」
人影が金熊だと気付いたのは、そう諭されてからだった。上半身のみを起こし、京は奥歯を噛みしめた。口内で不協和音が奏でられる。
「課長……」
「お前に、彼女をセイブさせるわけにはいかないんだよ……! もう一度よく考えろ、お前がセイバーズになった理由、この15年間追ってきた奴は彼女じゃないだろう」
京は金熊を見上げたままただ黙っていた。奥歯を噛みしめているのは自分だけではない、金熊はどこかすがるように京を睨みつけていた。その必死さが、何故だか笑いを誘った。
「そんなの、課長が一番良く知ってるでしょう」
項を掻きながら立ちあがる。怜奈も一緒に。怜奈は子どものように震えていた。怯えていたと言った方が正しいのかもしれない。図らずとも先刻の彼女が口にした不安があっさり現実のものになってしまったのだから無理もない。今ここに立ち並ぶ人間は、皆、怜奈を殺そうとしている。──それが末期ブレイクスプラウトへの定められた対処法である。
「俺がセイブします」
「京介……!」