SAVE: 11 浦島介に関する例の事件

─Part.1─


(なに、この鬱陶しいテンション……)
まるで浮気現場にいきなり現れた本命の前で、無駄と知りながら証拠隠滅を図ろうとする痛々しい男ではないか。たった今まで広げていた資料を片っ端から閉じて、かつてない俊敏さでパソコンの電源を落とす。京の動き自体は俊敏であったが、一方のパソコンは旧式らしいのんびりした速度でシャットダウン準備を始めたところだった。それを見届ける前に京はさっさと席を立つ。
「よし、帰ろう。こんな時間まで仕事に精出した甲斐があったよ。今小雪を一人で帰らせるわけにはいかないもんなっ。グッジョブ、俺!」
「一説には京と行動を共にする方が危険度が格段に上がるって話だけどね」
噎せかえる京を尻目に、小雪は淡々と窓の施錠を確認し、給湯室とコピー機の主電源を落とした。京は咳払いで持ち直すと、入口ドア横にある消灯スイッチに手をかけて小雪が出てくるのを待った。小雪は「どうも」と他人行儀に口にすると一足先に廊下へ出る。
「あのー……小雪、さん?」
「はい?」
京は小雪の斜め後ろを歩いた。と言ってもエレベーターに乗り込んでしまえば横並びにならざるを得ないのだが。
 返事をしたきり京が特に何も続けてこないので、小雪は淡々とボタンを押しそのまま開閉扉の内側を黙って見つめた。エレベーターの箱が一階に到着しても小雪が先にフロアに出て、やはりその後を京が追う形を保った。それもどちらからそうしているのか、現段階では分からなくなっていた。受付カウンターやすれ違う残業組に適当に労いの言葉をかけながら、二人はエントランスへ出る。ひどく冷たい風が結構な風速で吹いていた。
「小雪」
 今度はなんとなく立ち止まった。京はそうしなかったので必然的に横並びになる。肌をさす冷たい空気に、二人とも無意識に首を竦めていた。
「この間、ケーキ。サンキューな。なんかお礼もきちっと言ってなかったし、あ。お返しとか、奢るよなんか。……給料入ったら」
「ああ、うん。別にいいよ、あれはお見舞いというかお詫びというか、そういうのだし」
言いながら、京の言葉の中に何かひっかかるものを感じた。不快だとか違和感だとかそういう類ではない、もっと漠然とした混乱だ。
「お詫び? って何の?」
「何のって」
まるで覚えが無いようにあっけらかんと訊き返してくる京に、小雪は訝しげな視線を送った。京が被弾したのも謹慎処分を受けることになったのも、元を辿れば小雪の甘さと未熟さが原因である。それをこの男は覚えていないとでも言うのか──罵る権利が自分にないことは理解している。しかしその逆に、今の今まで全く以て理解していなかったことがひとつあった。それに小雪自身がようやく気付く。気付いたからこそ立ち止まって一気に青ざめた。顔面蒼白の小雪を見て、京も立ち止まる。
「何……どうしたの」
 その声は耳から耳へ素通りしていく。今小雪の中でリフレインしているのは数十秒前の京の言葉だ。──なんかお礼もきちっと言ってなかったし。
 小雪は血の気の失せた顔のまま頭を抱えた。
「京……、私、切腹する」
「は!? ここで!? じゃなくて、切腹はちょっと処理に困るから!」
「じゃあ土下座する……」
「いやいやいやいやっ」
力なくアスファルトに座りこもうとする小雪の両肩を支える。何がなんだか京には理解不能だがこういうのも役得と言うのだろうか。などと浮かれている雰囲気ではない。小雪は鬼火をしょって京から視線を逸らしている。眩暈でもするのか額を押さえたまま何とか立つ。
「えーーと。話がよく見えないんだけど」
 混沌として渦巻いていたいくつかの感情や疑問が、小雪の中で確かな輪郭を形作ろうとしていた。あの日自分が京のアパートを訪ねたのは何かを聞きだすためでも、謝るためでもなかった。今、頭を抱えてあげられないのはそれらに気付かないままだった自分にほとほと嫌気がさしているからである。
「ごめん、京……私その。ちゃんとお礼も言ってなくて。そのつもりで行ったはずだったんだけど……」
京は鳩が豆鉄砲をくったような顔だ。無論俯いたままの小雪にそんなことは分かるはずもないが。
「今さらになちゃったけど、ほんとに、ありがとう。助けに……来てくれて」
俯くのではなく頭を下げた。そのせいで、京がいつものように項を掻いたことをやはり小雪は知らずにいた。駅に続く道の往来でこうも深々と頭を下げられたのでは、下げられているこちらの方がいたたまれなくなってくる。
「どういたしましてってふんぞり返ってもいいんだけど、ま、水臭いことは言いっこなしってことで。俺と小雪の仲じゃない?」
「またすぐそう言うことを……」
「なんでよ。当然っしょ? 俺と小雪はバディなわけだから、ピンチになれば助けに行くしピンチのときは助けてもらうし。本来はピンチを生まないように協力し合うことが望ましいけどね」
「え? うん。そう、ね」
「実際俺が被弾した後は小雪が完璧に段取りとってくれたよな。ってことは結局、持ちつ持たれつ、バディとしての役目を双方果たしたってこと。だろ?」
「そう……だよね」
 京の満面の笑みに対して、小雪はどことなく不自然な作り笑いを返した。何かがいつもと、どことなく違う気がする。その違和感の正体を暴けないまま、気付けば駅の改札まで辿り着いてしまっていた。パスカードを通してホームに向かう。その後はそれぞれ真逆の電車を待つべく背中合わせだ。そうなる前に京が乗り込む電車が到着してしまった。
「俺が先か。じゃ、小雪も気をつけて帰れよー」
そんな他愛ない挨拶を交わしているだけで、電車内は鮨詰め状態になっていく。京はのらりくらりと人を掻き分けて入り口ドアに展示物のように張り付いた。微かに手を振っているようだが壊れかけの窓ふき人形みたいで気持ち悪いだけだ。
 明らかに容量オーバーの電車は、それでも構わず発進しすぐに夜の闇へ消えて行った。


 閑静な住宅街。そのキャッチフレーズが抜群に当てはまる、美しく整備された路地を乙女は一人歩いていた。街灯は5メートル毎、不必要に多い。静寂と暗黒は同居してはならないというのが都市計画の暗黙の了解だ。ファッションショーの花道のように道路は白々しい明かりで満たされていた。
(つけられてるわね……)
 そう思い始めてから実は随分経っていた。乙女のマンションはこの住宅街の一画、小規模な公園を覆う壁のひとつとして聳え立っている。夜目であってもその明かりが肉眼で確認できる距離まで来ていた。果たしてこのまま猛ダッシュでこの場を切り抜けるべきだろうか。考えた末にバッグからモバイルを取り出した。通話相手は法務課長の可児である。この局面で彼を選んだのは外でもない、可児が徒歩通勤で満員電車とは無縁の男だからである。従って着信に気付かない、あるいは気付いて無視するという可能性はほとんどない。案の定、可児は2コール目でいつもと同じ平淡な応答をしてくれた。
「課長、夜分失礼します。辰宮ですが──申し訳ありませんが、すぐにオペ課と保安課を招集してもらえますか。それとついでに、私の自宅付近に警察を」
可児の応答をとことん遮って、乙女は最低限の情報のみを早口に伝えた。後方、一定間隔を保っていた足音がいきなり歩幅を狭めてきたからである。体重が軽い──歩幅から言っても成人男性の足音ではない。乙女は意を決して振り返った。視界に映ったのは、街灯に反射して怪しく光る銃口。
 パァン! パァン! ──夜の住宅街に爆竹じみた渇いた爆音が鳴った。爆竹と違うのは、それが数秒の間耳に残響する点だ。
『辰宮ぁ! どうした!』
電話の向こうの可児が分かりきったことを聞く。それに応答できる余裕は乙女にはもうなかった。発砲音は止まない。三発、四発、五発目の引き金に指がかけられた矢先、近隣の住宅に次々と明かりがともりどこかの番犬がけたたましく吠えはじめた。カーディガンにサンダル履きという出で立ちの主婦、ダウンジャケットに咥え煙草の男性、どてら姿の受験生までが懐中電灯片手に道路まで飛び出してきた。今回ばかりはこの野次馬たちが、天の助けとなった。
「おい! 人が倒れてるぞ!」
「きゅ、救急車ー! 母さん救急車呼んで! 撃たれてるよ誰か~!」
ワン! ワンワン! ──
「大変っ! ちょっと貴方、起きてっ」
ワァン! ワンッ! ワン! ──
 威嚇して吠えまくっているのは、たぶん角の家の雑種犬だ。毎朝出社時に乙女が一声かけていくのだが、愛想もへったくれもなく無視を決め込んでくれる駄犬である。それが人集めに大いに貢献してくれているのだから次に会うときは骨ガムでもプレゼントしてやらねばなるまい。薄れ行く意識の中で、乙女はそんなことを思い微笑した。
 頬が冷たい。冬のアスファルト地面というのはここまで冷たいものなのか。そのくせ下半身だけがやけに生ぬるい。
「最悪……これ結構、やばいじゃない……」
街灯がスポットライトのように、煌々と乙女の身体を照らしていた。自分の半径1メートルに、やけに濃い液体が溜まっている。思考回路は鈍っていない、だから事態の深刻さとこの液体が誰の何かくらいは容易に判断できる。但し意識は暗転目前であった。
 防水携帯って血溜まりにも対応してるのかしら……──機種変更したばかりのモバイルの安否を気遣った。それを最後に意識は容赦なく、堕ちて行った。


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