城戸と昼食を済まし保安課に戻ってからも、これみよがしに平和を強調したような時間は変わらなかった。何かしら電話が鳴り、何かしら荒木が唸り、何かしら席を立つ用事は全員にあったが、それが思考を止めるほどの忙しさには至らない。いつもなら目まぐるしく動く視界の中が、今日はひどく緩慢に見えた。
そんな状態であったのと、ここ最近の物騒な近隣事情も加わってほとんどの者が定時に退社した。そういう時も我関せずと、むしろ好都合とばかりに居残るのが京だ。金熊が長年かけて押し広げてしまったブラインドの隙間から、赤とも黒とも言えない妖艶な空色が除いている。そこへ響く、固いノックの音。京は返事もせずに肩越しに振り向いた。予想通りの人物が開け放たれたままのドアに寄りかかって立っている。
「残業ですか? 浦島さん」
乙女のわざとらしい嫌味には答えず、京はデスクに向き直った。平らに広げた分厚いファイルには、いくつかのロイドサングラスの写真とその品番らしき番号の走り書きが収められている。乙女は京の肩からにょっきりと生えてきて、それらを半眼で覗き込んだ。
「趣味の悪いサングラスですことー。浦島さんはもしかしてこういうのがお好み? あら、意外とお高ーい」
「で、どうだった」
茶化す乙女を制するようにファイルを勢いよく閉じた。が、反応が無い。訝しげにまた振り向くと汚物でも見下すような冷めきった視線をよこす乙女がいる。牽制したつもりが逆に委縮して、京は咳払いでお茶を濁した。
「で、どうでしたか……」
肩をすぼめて呟くと、乙女は京の隣、小雪の席の椅子を引っ張り出して勢いよく座った。椅子の背もたれが苦しげに悲鳴を上げる。
「言っておくけどこれ、私の、というか法務課の領分も越えてるから。頭にたたき込んだらできるだけ早く処分して」
「重々承知しております」
乙女は持っていた資料の隙間から、さも通常の報告書のように見せかけて数枚レポートを取り出した。いつものように仰々しく茶封筒で渡すわけにはいかない。
「オオカミリョウジ。大きい神様に良く治めるで、大神良治。記載の住所は赤の他人のものだし、名前も偽名でしょうけど。今時ロイド型をオーダーメードする客は早々いないって、店長がよく覚えてらしたわ」
オオカミリョウジ──偽名は偽名かもしれないが、この眼鏡の注文票にある人物は、京が求めていた人物と一致するという確信があった。狩野製薬の薬品倉庫で、麻宮が咄嗟に「ウルフ」という名を叫んだのを思い出したからだ。気の効いたというべきなのだろうか、京には人を小馬鹿にしたようなコードネームだとしか思えなかったが。
「サンキュー。後は俺の方で調べるよ」
必要な情報だけを手早く手帳に書くと、注文票のコピーは乙女に突っ返した。その全ての動作をデスクに向いたままでやったせいか、乙女の特大の嘆息が響く。次いで出された二枚の書類に目を見開いて、京はようやく身体を乙女の方へ向けた。
「うーん……今日はここまでにしとくか」
廊下にすっかり人気が無くなったことと、資料室の小窓から見える景色がちゃちな夜景に変わったこと、そして腕時計に目を落として作業時間の限界を悟る。小雪は保安課と同フロアにある資料庫で今までセイブ記録に端から目を通すと言う途方もない作業をやっていた。誰に指示されたわけでもなく必要に駆られてでもなく、自主的にである。更に言えば今に始まったことでもない。定時に上がれるような平和な日には、こうして過去の記録や資料に読み耽っていた。
閲覧用の簡易デスクに安物のスタンドライトがある。それを点けないと絶対に視力が悪くなるような薄暗さを誇るのが資料室だ。それなりの広さがあるのに明らかに蛍光灯のワット数と本数をケチっている。などと内心では思いながら、小雪はスタンドライトのスイッチを切った。ちょうどそのタイミングを見計らったかのように入り口のドアが開く。
「やっぱり白姫くんか。勉強熱心なのは結構だが、その辺で切り上げて今日はもう帰りなさい」
やっぱりと口にしながらも金熊は目を丸くしていた。彼は退社する気満々のようだ、小脇に年季の入った皮鞄を抱えている。小雪も「お疲れ様です」と一言添えて自分の鞄を手に取った。
「ちょうど今出ようと思っていたところです」
「あぁそれなら、浦島が残ってるから一緒に帰ってくれ。極力単独行動しないようにな」
「あー……はい」
珍しく歯切れの悪い返事をしたにも関わらず、金熊は満足そうに頷いて姿を消した。
「当面の間出社、退社時を含め全社員個人行動を避けること」といった注意喚起が夕方の所属長会議でなされた。自身の部署から被害者が出ている金熊としては、注意喚起ではなく徹底事項であるのだろう。その気持ちを無下にするのは流石に罪悪感を覚える。小雪は資料室の消灯を済ませると、エレベーターフロアを横切って保安課の入口へ向かった。金熊の言ったとおり室内から明かりが煌々と漏れている。入って、声をかけてさっさと消灯を済ませる、それらをできるだけ間をおかずにこなしたかったが、早速出鼻をくじかれた。
話声、それも誰と誰かすぐに特定できる聞き慣れた声だ、壁に背中を張りつけて思わず息をひそめた。
「……何これ」
「見ての通り。申請書、二枚目が許可書。『最近来てますか』って問い合わせたら『とんと来ないね~』って言われたから、私が代理で申請しておいてあげたわ」
「また勝手にそういうことを……」
京の面倒そうな声が聞こえる。但し心底嫌悪を抱いているそれではない。一拍置いて諦めたような深い溜息をついた。
「敵わんねー、辰宮主任様にはっ。……近いうちに行くわ」
「そうしてあげて。あんたも彼女にいろいろと報告したいことがあるでしょ」
「どうかねぇ」
最後の方は苦笑混じりだった。その後すぐに、どちらかが席を立ったのだろう椅子の短い悲鳴が聞こえる。小雪は慌ててつま先立ちでエレベーターホールまで後ずさった。資料室側の角まで戻って、乙女のヒールの音に合わせて自分も移動する。当然、計ったようなタイミングで乙女と鉢合わせになった。
「何やってんの? こんな時間まで」
乙女はさほど驚愕した風でもなく、単純に遅い時間まで居残っていたことに対して疑問符を浮かべているようだ。小雪もそれなりに調子を合わせねばならない。つまり、愛想笑いが引きつらないように細心の注意を払わねばならないという意味だ。
「私は資料を見てて……乙女さんこそ、保安課に用事でしたか?」
「逆ぎゃくっ。用事も無いくせに無駄に居残ってる、非エコ社員の注意に立ち寄っただけよ」
それにしては深刻そうな話しぶりでしたね、とは口が裂けても言えない。
「小雪ちゃんも帰るならアレ連れて帰ってよ。単独退社禁止だからちょうどいいでしょ?」
「課長にもそう言われました」
ここは苦笑いで大丈夫だ。先刻とは打って変わって調子の良い乙女に、内心では違和感を覚えながらも小雪はそれを表に出すことはなかった。互いに「気をつけて」などというお決まりのセリフを吐いて反対方向に歩きだす。
小雪は今度は立ち止まることなく、やはり開け放したままのドアをノックした。
「もーしつっこいなー! すぐ帰るっ、て」
言い放ちながら椅子ごと180度回転する京、予想外の人物が半眼腕組みで突っ立っていたことに派手に驚愕して勢いよく後ずさった。と言っても後方には自分のデスクがあるからすぐさませき止められる。どうしてこの男は、こちらが情けなくなるほど分かりやすいのだろう。
「あれ!? 小雪ちゃん、何、残ってたの? あ、ひょっとして俺のこと待ってた!?」
「しつこくてすみませんね? 課長と乙女さんから一緒に出るように言われましたので、仕方なく」
「な~るほどっ! 仕方なくね! ……ですよねー!」