SAVE: 12 A puppet in the Broken world


 時計の針が午後九時をまわろうかという頃合い。ジャズバー「ニンフ」の薄暗い店内は、今夜も常連客で賑わっていた。こぢんまりとしたステージにはラメ入りブラックのドレスを纏ったイズミ。こちらも変わらず、凛とした力強い歌声を響かせていた。
 京はステージに程近い丸テーブルに陣取っていた。ここには先日セイブ業務で城戸と訪れて以来、仕事帰りにふらりと立ち寄るようになった。目当てはもっぱらイズミの歌だ。そう本人に告げると照れながら大喜びしていた。それも最近の話である。
 ドラムソロが終局を迎え、イズミが一礼すると拍手と指笛が鳴り響いた。今のがラストナンバーだったのだろう、イズミはステージから降り、ウッドベースとハイハットシンバルの刻むリズムだけが店内のBGMになり替わった。
「どうだった? 今日のは。サビんとこノリが良くて、気持ちいい曲だろ?」
 自分の分のドリンクを持参して、イズミが京の隣にどっかりと腰をおろす。京が聴いたことのないであろう曲を歌い終わったときは、こうして律儀に感想をききにくるのだ。
「歌ってる方が気持ちよさそうな曲だ」
「それは言えてる。優しく歌ったり気合い入れてみたり、いろいろ遊べるんだよ。相性がいいってのもあるけどね」
 なるほど、と頷いて京は残り少ない自分のグラスに口を付けた。軽食をとることもあったが、大抵はこの一杯を呑みほして席を立つ。今夜は後者のつもりだった。それを察して引き留めるつもりなのか、イズミが自分のグラスを無造作に京へスライドさせた。
「そういえばさ。この前来たとき、最近変わったことはないかって聞いてきたじゃん。ちょっと小耳に挟んだことがあるんだけど……や、関係ないかもしんないんだけどさ」
「ん、いや何でもいいよ。そういう情報こそどっかで役立ったりするからね」
「あっそう? じゃ一応伝えとくけど、なんかさ。妙なクスリがスプラウトの間で出回ってるらしいんだよね。ブレイクしないでブレイクできるとか、一時的にブレイク気分になれるとか訳わかんないかんじの……あたしも直接見たとかじゃなくて、客の一人から話持ちかけられただけなんだけどね」 
「持ちかけられたって……買わないかってことか?」
 京が思いのほか神妙な顔つきをつくったせいか、イズミは慌てて顔の前で両手を振った。
「買ってないよ? なんだっけな、そういうサークルみたいなのがあって顔出してみないかみたいな? そいつも常連なんだけど結構しつこくて断るの苦労してさー」
徐々に盛り上がってくるイズミの詳細な話を、京は思案顔でやりすごす。「クスリ」という響きと、ブレイク「できる」という語感が妙にひっかかった。
「ちょっとお客さーんっ。あたしの話聞いてますかー?」
「聞いてる。で、イズミちゃんを一流ジャズシンガーと見込んで、ひとつ頼みたいことがあるんだけど」
 彼女が一流かもジャズシンガーかも実は関係が無いが、嬉々として身を乗り出してきたところを見るに嘘も方便、結果オーライというやつだろう。
 京の中では話にでてきた「クスリ」とやらが、どうしても「BLOOM」と直結してしまう。事実そうであるにせよ、なかったにせよ、これはひとつの糸口になりえる気がした。


 怜奈をセイブしてから一週間が過ぎていた。京にとってのその一週間は、嵐のような期間でもなければ抜け殻のような期間でもなく、どこをどう見ても日常そのものであった。課長にどやされ、荒木に溜息をつかれ、へこんでいる暇もなく出動要請ベルが鳴り響く。セイブが済めば調書が机上に溜まっていき、うんざりしながらパソコンのキーをぽちぽちと押す。
「お疲れ様。コーヒーここに置いておくね」
 大あくびを漏らして伸びをしたところで、みちるが苦笑しながら絶妙なタイミングでコーヒーを運んでくれる。巡回から戻ったシンと小雪と、何か話しながら城戸が笑っている。
 全てが至っていつも通り。机の上で仕切り代わりになっている黒いアクリルファイルも、何一つ変わらずそこにある。
「浦島くん、内線。乙女さんから」
 みちるの声にならって視線を落とすと、電話機の保留ランプが点灯していた。今日一番のうんざり顔をつくって大儀そうに受話器をとる。乙女の社内携帯は先の襲撃事件で血だまりに沈没して故障、おかげさまでこうしてひっきりなしに内線が鳴る。
「はい、浦島っ」
『何よその雑な応答。どっかのウルトラ馬鹿の後始末に、こっちがどれだけ時間と労力割いてると思ってんの?』
 半ばやけくその京の様子に間髪入れずに不服申し立てをする乙女。痛いところを突かれて京が言葉を詰まらせたのを察すると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
 保安課とは異なり、法務課は(とりわけ乙女は)この一週間修羅場続きであった。言うまでもなく元凶は京である。弁当屋の看板娘・津留沙織の惨殺を皮きりに発生した一連の女性襲撃事件、乙女自身被害者という形で巻き込まれた挙句、今は事後処理の全てが手元に回ってくる。それに上乗せして例のめちゃくちゃなセイブだ。多種多様な規約と命令を片っ端から無視して強行された新堂怜奈のセイブについて、京の処分は未だ保留状態である。それというのも破った規定の数と種類を整理するだけで一週間かかっているからだ。
「……お忙しい中お電話ありがとうございます。話題沸騰のウルトラ馬鹿に何か御用ですかね」
『大ありよ。怜奈さんの、……違うわね。正確には“怜奈さんに使用されていたアイ”の分析結果だけど、概要聞いた?』
「いや……。出たのか」
 声色に出ないように気をつけながら京は苦虫をつぶした。よりによってそんな大事な内容を内線で済ますつもりなのかこの女は。上司陣の視線がこちらに注目していないことを確認してからそれとなく声を潜めた。
「それ、会って話せないか」
『お断り。言ったわよね? 鬼のように忙しいの。松葉杖ついてまでわざわざ上に行くのも面倒だし。京さ、……今さらこそこそ動くのやめなさいよ、みっともない。全部署何らかの形であんたの尻ぬぐいしてんだから』
反論を事前に遮られて、今度こそ白旗を上げる。後頭部をわしわしと掻いた。見て見ぬふりの金熊も、この一週間の主な業務は京関連の後始末に違いないのだ。
「別人のアイをわざわざ埋め込んでたんだろ? 何のために」
 声を潜める必要もないような気がして、京は椅子に深く座りなおした。金熊が、シンが、小雪が、揃って一瞬こちらに視線をよこす。
『現段階では憶測にすぎないけど『BLOOM』の運用実験の一環じゃないかと』
「ここでその名前が出てくるわけね……」
 怜奈のアイ、その普通ではない濁り方を思い出して不快な納得を覚えた。
『彼女のブレイクの要因には間違いなく『BLOOM』の使用が関係している。それだけは憶測じゃなく、事実よ』
 京は余計な口を挟まず、乙女が発する情報に相槌だけを繰り返した。転用されたアイの、元々の持ち主を割り出すにはまだ時間がかかるらしいこと。アイは変質しきっていて正常部分が残されていないため、データをさらって一括照合というわけにはいかないらしいこと。セイバーズが所持している全スプラウトの全アイデータのブレイクシュミレーションから始めなければならないらしいこと。そのあたりまで生返事を繰り返して、疑問符が浮かんだ。
「それ、全データひっくり返す必要あるのか? 元はプリズムだろ、そこそこ絞れるんじゃないの」
『は? 誰がいつプリズムだって言ったのよ。変質しきってて元は分かんないって言ってるでしょ』
「分かんないって……いや、プリズムだろ。俺が確認したんだから」
 受話器の向こうの乙女が息を呑んだのが分かる。沈黙と呼吸の応酬。京も訳も分からず重くなってしまった空気に従うことにした。また何か怒鳴られる気がする。
『……それ。その、京の目視ってやつ。ブレイクしているかしてないかが分かるんじゃないの』

Page Top