金熊は歯ぐきを剥きだしにしたまま顔を背けると、右手で項を掻いた。金熊のその仕草を、京は随分久しぶりに目にした気がした。気恥ずかしかったり柄にもないことをするときの、「ちょっと困った」の合図だ。京もまた、顔を背けて笑いを堪えた。
「だったらみんな誘いましょうよ。何をこんなこそこそと」
「お前本当に馬鹿なんだな……。みんなって誰のこと言ってる?」
疑問符を浮かべる京の横を、タイミングを見計らったかのように保安課のメンバーが次々と通り抜けて行く。「おつかれさまでしたー」などと言って大変清々しく会釈して去っていく。金熊はさも当然のようにそれらを見送った。そして全く理解不能といったふうに目を白黒させている京に向けて咳払い。
「ま、これが現実だ。リクエストがあれば聞いてやるぞ」
京は下唇をこれでもかというほどきつく噛みしめた。現実は世知辛い。数時間前まで仲間として心を一つにしていた気がしたがきっと気のせいだ。大いなる勘違いだったのだ。そして打ちひしがれた京に手を差し伸べてくれるのはいつも金熊ただひとりである。泣ける。涙がちょちょぎれる。実際目尻にじんわりと水分が溜まった。
「とんかつで……!」
意気揚々と手を振りながら去っていく同僚たちを見送りながら、京は涙目でそう告げた。金熊は京の肩に手を置くと、くっくと笑いを噛みしめた。
「かつならいい店を知ってる」
「口のかたい大将がいる?」
間髪いれず京が返す。答えずにデスクに向かう金熊の後を、京は子どものように追いかけた。
京にとっての長い聖夜が、ようやく終わろうとしていた。恋人たちには当に「これから」なのかもしれなかったが、そんなことは知ったことではない。美味いカツと、美味い味噌汁、できれば生ビールを一杯、その後はいつものようにさっさと床に着いてまた地獄のように寒い朝を迎えるだけだ。明日も早い。そしておそらく忙しくなるだろう。
「京介、もたもたすんな。店がしまっちまうだろうが」
生返事ついでにしわくちゃのコートを手に取った。と、ポケットの中で何かガサガサと音をたてる。訝しげに音の正体を引きずりだすと、ジンジャーブレッドマンクッキーが締まりの無い笑みをこちらに向けていた。
京にとってのとても長い聖夜が終わろうとしていた。
12月25日、午前8時45分。スプラウトセイバーズカンパニー藤和支社、保安課。
「忘れ物ないよな? メモリー関係は?」
「昨日のうちに全部渡してある。チェックも、システム課にしてもらってあるから」
小雪は普段と変わらずきちんとスーツを着て、京の質問に明瞭に応答した。昨夜はカンパニー内のシステム課が管理する棟で一泊、今朝はそのまま出社、というか単に五階に上がって来た。
「んじゃあ、ぬかりはないな。まぁ初期だから、そこまで神経質になることもないけど念のため」
京があっけらかんと言っているのは、アイの損失により記憶障害についてだ。必要な個人情報は術後のために記録媒体に保存する決まりになっている。心情的な面も含めてだ。完全なプライヴェート情報は別媒体に分けてロックをかけ、その解除パスワードのみをシステム課の担当者に伝える。万が一に備えての必要最低限の保険である。小雪の場合、京が言うようにブレイク初期段階であるからほとんど心配はない、というのがセイバーズの見解だ。本人も一応そのように理解してはいる、が。
「全く弊害なし、ってわけには当然いかないもんね」
「まぁ……削りはするわけだから。直近の記憶に関しては飛ぶ可能性はある」
「直近って、今とか。……昨日、とかってことだよね」
言い淀む小雪。真意が掴めず京は小首を傾げたが、すぐに確信めいた小槌をうった。
「ひょっとして俺のこと? だったら別に心配いらないよ。あー、確かに昨日の俺はかっこよすぎて忘れるには惜しいかんじだよな。ロック分の媒体に足す? システム課に連絡入れれば間に合うよ」
「そっ……そう、なんだけど! そうじゃなくて……。その、情けないんだけどほんとに大丈夫なのかな、って」
「大丈夫でしょ。極端な話、俺のことまるごと忘れたとしても、俺が小雪を覚えてるんだから何の問題もないわけで」
「ん、んーっ、 あー」
横やりが入った。それもかなりベタな咳払いで、京は露骨に不機嫌を顔に出すと発生源である課長席をにらみつけた。
「良い雰囲気のところ悪いんだがな……」
「いや、課長ほんと。そういうのやめましょ? 分かってるなら見守りましょ? そういうとこ俺、課長の悪いところだと思う」
「お前、今どういう状況か分かっててそのイカレた台詞吐いてるのか……」
呆れを通り越していっそ感心したふうに、割り込んできたのは荒木だった。保安課職員の上司陣は何故こうも空気を読まないのだろう、京の口から特大の嘆息がもれた。
「状況は常に的確に把握してますよ、クライマックスでしょ。俺と、小雪の」
「朝礼中だよ! 保安課全員の!」
今度は金熊自らが青筋を浮かべて全力で突っ込んだ。
京は半眼のまま周囲を一瞥。大あくびを漏らすシン、苦笑いのみちる、無表情を決め込む城戸、その隣でがっくりと肩を落とす荒木。確かに五分ほど前に朝礼が始まったのは知っているが、それがどうしたというのだ。瑣末なことである。京にとって今大事なことは、小雪が不安がっていて自分を全面的に頼ってきているというその一点のみだ。
自らの正当性を主張すべく、京はまた鋭い眼差しを金熊へと向けた。金熊も負けじとにらみ返す。
「と~に~か~く~、浦島は、午前中は白姫くんに付き添って本社! その間の業務はこっちで回すから忙しくなるぞ! 全員ベルが鳴らないように祈っとけ! 白姫君も! とにかく、なんだ、早く元気になって戻ってくるように!」
「は、はいっ!」
思わぬとばっちりを受けて小雪が慌てて返事をする。刹那──。
古い電話の呼び出し音のような、相変わらずのけたたましいベルが鳴り響いた。無論、相変わらずの緊張感を引き連れて。噂をすれば何とやらである。
『外部より入電。藤和中央交差点にて男性スプラウトが大の字になり、交通が麻痺しています。保安課職員は現場に急行してください。繰り返します。藤和中央交差点にて男性スプラウトが大の字。交通麻痺』
「出たよ、美森の“ちょっと省略”が……」
「そういうわけで俺と荒木さんは出るけど。白姫、しっかりな」
荒木の嘆息と城戸の苦笑、朝一番のセイブにはおなじみの光景だ。二人が脱いだばかりのコートを着直したところで、金熊がストップをかけた。
「朝礼だけ締めるぞ。浦島! スローガン唱和!」
京は小さく咳払いして腹に力を入れた。いつもの朝が始まる。毎日が始まる。そのためのスイッチがこの企業理念、浦島京介が信じる「セイブ」。大きく、息を吸った。
「全力セイブ! 君の笑顔とそのこころ!」