──ブレイクスプラウトは……“アイ”が断続的に濁る。ちょっと見たくらいじゃ分からないけどな、十秒くらい注意して見ないと──
みんな一度は試すらしい。で、みんな首をかしげて終わる。京だけが知っている、京にだけ分かるブレイクのルール。
「5……」
──あんたの目玉はブレイクスプラウト以上に濁ってるな──
プリズムスプラウトのバイヤーであった加賀見に向けてはそんなことも言っていた。加賀見はスタンダードであるから、その「濁り」は京特有の比喩には違いなかったが否定する気には全くならなかった。今、自分のアイは、白姫小雪という存在は、京の目にどう映っているのだろう。
「6」
はっきり数えて、一度深く息を吸った。その息を吐くときに一緒に涙がこぼれた。
「な、7……」
一度こぼれた涙の粒は、後から後から溜まっては雫になって流れていった。視界がかすむ。それでも真っ直ぐ京を見た。
「……8」
──“二度と会えない道”を進むしかなかったスプラウトを、俺は知ってる──
今なら分かる。それはたった一人のことをさしていた。
──思い出ってのは……記憶ほどヤワじゃない──
ずっと聞きそびれていたことが脈絡なく浮かぶ。それは京の持論なのだろうか。そうだったとして京にとって「思い出」はどういう意味を持っているのだろう。その言葉を口にするたび京が少し哀しそうな顔をすることを、小雪は知っている。ちょうど今、そうしているみたいに。
「9──」
ラストカウントを小雪は口にしなかった。する必要がなかったというか、できなかったというか、十秒目を口にする直前、唇を塞がれた。
京の冷えきった唇の感触だけが、長い長い十秒目を支配した。涙の粒が、忘れ形見のようにひとつ、またひとつアイからこぼれ落ちた。
「……よくがんばった。さすが、白姫小雪」
京は十秒経ってもまだ小雪のアイを見ていた。ただ見ていた。虹の光彩を放つプリズムアイからこぼれる雫は、そのひとつひとつさえも宝石のように輝いて見えた。小雪はしばらくぼんやりしていたが、惰性で止まらなくなった涙を子どものように手の甲で拭うと今度はしっかり俯いてしまった。耳が赤いのもたぶん寒さのせいではない。
京はベンチに再び小雪を座らせると小走りに駅の改札に向かい、その手にココアの缶を二つ握って戻って来た。なんとかの一つ覚えみたいに『しのぶ』ばかり飲んでいる京には、珍しい組み合わせだ。小雪にひとつ手渡して、自分は口もつけずに上着から無線を取り出した。実のところ電源はここに来る前に落としていた。
小雪に視線だけを送った。ここでこうしているわけにもいかない。数分は許されるのかもしれないが、とにかく寒かったしこれ以上同僚たちを無意味に走らせるのも惨い気がした。
「こちら、保安課浦島」
同じチャンネルで、どこまでの人員に伝わるのか知らないがとにかく形式的に報告をしなければならない。
「……管轄内埠頭公園にて白姫小雪を確保しました。……レベル1ブレイク、目視確認済み。通常の会話ができる状態のためこのまま現場で待機、応援を要請します」
できるだけ平静に、できるだけ淡々と。それが暗黙のルールだ、と思っていたのは残念ながら自分だけのようだった。少なくとも、藤和支社保安課という狭いチーム内では。
『浦島ぁ! でかしたああ! そこから一歩たりとも動くなよ! すぐうちから迎えを──!』
『白姫隣にいるのか!? 最高速度で行くから本部の車とかには乗るんじゃないぞ!』
スピーカーから、普段の二割増しこぶしの効いた金熊の声が轟く。かと思えば、かぶせ気味に荒木。京は反射的に無線機を耳から遠ざけた。
『京! 小雪さんは! 怪我とかしてないの?』
続けざまに、いつになく切羽詰まった声のシン。
『青山ですっ! 小雪ちゃぁぁん……! う、浦島くんも良かったぁぁ!』
そしていつになく取り乱すみちる、一応名乗ってはいるが内容の無いことを泣きながら叫んでいる。
『浦島! 白姫とどっかあったかいところで待機! お前上着持ってないよな? とりあえず死ぬなよ!』
城戸の声には安堵が混じる。自分よりも先に連中が一通り騒いでくれたおかげで冷静になったのだろう。なったらなったで何がおかしいのか既に半笑いのようだった。
『……第三エリア統括、宇崎だ。浦島京介、本社からの車両は出さない。通常のセイブ業務と同じように適切に対応しろ。以上だ』
ほとんど私用かと思われたチャンネルに、超公的人物が当然のように割り込んできた。京は目を丸くして、思わず小雪と顔を見合わせた。保身のために高速で自分の言動を振り返る。大丈夫だ、まともな報告以外伝えていない。問題発言があったとすれば荒木あたりだろう。ご愁傷様。
「了解。藤和の、応援を待ちます」
随分長いこと固まっていた口元の筋肉が、自然に緩む。ついでに気も緩んだのか、豪快にくしゃみが爆発した。寒い、とんでもなく。死ぬかもしれない、結構本気で。「あったか~い」はずのココアは、ものの数十秒で冷めきっていた。なんたる根性無しか、「しのぶ」ならきっともう少しねばってくれる。単なる液状チョコレートと化したココアを恨めしそうに見やり、怒涛の勢いで垂れてくる鼻水をリズム良くすすった。
「京、あの」
「ん?」
「私、みんなに……」
立ち上がろうとする小雪に、今度は静かに手をさしのべた。
「帰ろう。みんな、心配してるよ」
小雪の口元から苦笑と安堵の溜息が同時に漏れた。眼前にある京の手、重ねたその手のぬくもりが確かなものとしてそこにある。それが今、何より大切なことのように思えた。
その後数分で到着したシンの車に乗って、二人は無事にスプラウトセイバーズカンパニー藤和支社に辿り着いた。小雪本人を交えI-システム課と相談をした結果、アイのブレイク部分のみを切除する、一番安全で一般的な処置をとることに決定。京はその全てに立ち会って、必要な場面では小雪に確認をとって話をすすめた。
同日、22時。スプラウトセイバーズカンパニー藤和支社、保安課。
小雪の手続きも一段落、ようやく保安課職員が各々の席に着いて思い思いに疲労を噛みしめていた矢先、京は金熊に手招きされる。課長席からではなく入り口からだ。つまり、出ろと。
京は重い腰をあげながらも、とりあえず様々な言い訳のパターンを思いつくままに思考してみた。保安課の開きっぱなしのドアをくぐる頃にはそれが無駄な努力であることを悟り、両手を挙げて廊下に投降した。
「……何の真似だ」
「いや。もう潔くやっつけられた方が課長の気も済むんじゃないかと思って。さ、どうぞ。遠慮なくっ」
万歳状態だった両腕をおろして無防備をアピールする。金熊はそれを汚物でも見るかのように蔑んで、あからさまに奥歯を噛んだ。
「と、いうのは、まあ、はい……冗談で」
「だろうな」
「えー……っと。報告ならさっき済ませましたよね……? まだ、何か」
「何かだあ? 朝からほとんど飲まず食わずだろうから飯くらい奢ってやろうと思ったんだがなっ。余計な御世話だったみたいだな?」