自分でもわかるくらいに語気が強まった。どこまでも冷静な乙女と、結局どこまでも冷静になれない自分に嫌気がさして京は小さく舌打ちする。
「検査を受けるべきだと言ってるの。あんたたちだけの問題じゃない」
「……現段階で、お前に口出されるような問題でもない」
「京」
諭すように名前を呼ばれる。京は缶の残り半分をまた一気に飲み干した。
みちるから申告を受けた後、京は小雪のノートパソコンを立ち上げている。そして、ここ一週間のアクセス履歴から業務の進捗状況、修正箇所まで全て復元し彼女の動向を細かに追った。ある意味で大胆なこの行動のおかげで、頭の隅を掠めていた疑念は払拭された。京は今、自分で導き出した結論を整理するためにここにいる。それを不躾に邪魔された時点でかなり苛立っていた。
またヒールの音が響いた。乙女のそれとは違う。彼女は先刻から腕組み仁王立ちで京の前に立ちふさがっているから、地団駄を踏もうものならより明確に響くはずだ。足音は躊躇っていた。やがて意を決したように激しく踵を打ちならして廊下を駆け抜けて行った。
「小雪……?」
呟いて、無意識に乙女の顔色をうかがった。どこまでも冷静だ。はじめからか途中からか、小雪の存在に気づいていたのだから当然の態度である。
「乙女、お前……っ」
「間違ったことをしたつもりはない」
乙女を糾弾するのはどう考えても後回しだ。握ったままだったしのぶ缶を溢れ気味の屑かごに無理やり押しこんで、足は消えかけたヒールの音を追っていた。保安課からは自分が点けっぱなしにしてきた明かりが煌々と漏れている。その蛍光灯の下で小雪は何もかもを詰め込むように乱雑に帰宅準備をしていた。
「帰る。どいて」
「待てよ、送る」
ほとんど無意識に掴もうとした二の腕を、これでもかというほど思いきり振りはらわれた。
「一人で帰れる!」
逸らされ続けていた視線が一瞬だけ合う。小雪のアイに溜まった涙を目にして、京は身動きがとれなくなった。その間に小雪は保安課を飛び出して非常階段から一階へ猛スピードで駆け下りていく。京はその足音を聞きながら後頭部を掻きむしった。
「あ~……くそっ……!」
いろいろな取り返しのつかないミスが立て続けに起こっている自覚がある。悔やんでも仕方ないから考えるのをやめて、全力で後を追った。階段を数段飛ばしで落ちるように駆け下り、人通りもまばらになったロビーを走り抜ける。エントランスの自動ドアをこじ開けたところで、小雪を視界に捉えた。長距離を走りこんだかのように、膝に両手をついて肩で息をしている。
小雪の視界は、大時化のなか航海に繰り出した帆船のようにぐらぐらと揺れていた。京の気配を背後に感じても、思うように次の一歩が出ない。立っている足場さえも揺れている気がした。京がまるで当然かのように自分を支えようとするのが、たまらなく嫌でそれさえもなりふり構わず突っぱねた。
「私ブレイクなんかしてない……!」
京は否定も肯定もしない。振り払ったはずの腕に、いつの間にかしがみついて立っている自分に気づいて逃げるように距離をとった。
「疑ってるの、私を」
距離を──とったのだろうか、よく分からない。ただ京が、ごちゃごちゃと何か高速で喋っているということだけ分かる。内容はよく分からない。何故分からないのかが、分からない。視界が揺れ、吐き気が襲い、とにかくひどい気分だ。一刻も早く家に帰りたかった。それなのにこの男は、やはり空気を読まずわけのわからない早口言葉を言い続けている。
我慢の限界だ。
「お願いだから黙ってよ! うるさくて頭が変になりそう!」
感情的に叫んだ途端、辺りが静まりかえった。極端だ。耳を塞ぎたいほどやかましいかと思えば電池が切れたかのように動きさえ止める。おかしいのはどう考えてもこの男の方だ、にも関わらず京は「真剣そう」な眼差しをやめない。ここまでくると目ざわりでしかなかった。
「違うって言ってるのに何でまだそんな目で見るの……?」
これ以上何を話しても無駄な気がして、小雪は待機していたタクシーの方へ駆け寄った。
「小雪……!」
ようやくまともに喋ったかと思えば単に名前を発しただけ、呆れ果てて溜息さえでない。タクシーに乗り込んで自宅の住所を告げた。駅から電車に乗るという選択肢は無かった。
そういえばどうしてここまで気分が悪いんだろう──車が発進すると同時に、思考がまた回転し始める。そういえば──どうして、京は血相を変えて追いかけてきたんだったっけ。
ブレイクしてるんじゃない?
散らかった思考に、突然乙女の声が割り込んできた。そうだ、自分は確かこの台詞を聞いて──。
「え……誰、が」
後部座席で独りごちる小雪、タクシーの運転手がバックミラー越しに訝しげな視線をよこした。
「お客さん、寒い?」
運転手の間の抜けた問いかけに小雪は少しだけ顔をあげた。と、バックミラーに映った自分の顔があまりに青くて目を見開く。暖房の効いた車内でがたがた震えていた。