SAVE: 04 大絶叫フェアリーランド


 若干の苛立ちを抱えて、浦島京介は席を立った。ゴミ屋敷のジオラマのような机上には、書類、書類、書類の山。それに埋もれまいとノートパソコンが必死に顔を出していた。右隣では小雪が黙々と報告書の入力に精を出している。それをちらりと横目に見て、京は無言のまま保安課を出て行った。
 スラックスのポケットに入っている小銭を確かめる。食堂を通り過ぎた先のタバコの自動販売機の前で一度立ち止まった。暫く眺めたものの、涙を飲んで立ち去った。その先にある携帯食品の販売機にも一瞬目をやる。カップ麺にブロックタイプの健康食品、あまり美味しくないあんパンとコロッケパン、随分前からこのラインナップは変わらない。社員食堂が開いている時間はほとんど見向きもされないが、残業組にはなくてはならない存在だ。その前も通り過ぎる。時刻は午後2時半。ここまではいつも通りだ。
 廊下のコーナーに沿うように飲料の自動販売機が4台設置されてある。京は浮かない表情を一転させて、口元をゆるめながらその場所を目指した。


 ほどなくして保安課に戻り、京はふらふらと蛇行しながら倒れこむように席についた。入力途中で放置していたパソコンのディスプレイでは、スクリーンセーバーとして使っている立体的な「全力セイブ! 君の心とその笑顔!」の文言が踊っている。京は書類で半ば埋もれかけたキーボードの上に勢いよく突っ伏した。
「すべてのやる気が失せた……」
顔だけを小雪のデスクに向けて切に訴える。小雪は真っ直ぐパソコンのディスプレイを見つめ、先刻と全く変わらないペースで入力作業を行っていた。京の方には見向きもしない。いつものことと言えばいつものことで、通常運転と言えばこれ以上ないほどに通常運転だ。その気持ちの良い無視っぷりが今に限っては心に刺さる。京の視界が涙でにじんだ。
 すると、今しがた外出先から戻って来た城戸が訳知り顔で京の肩を優しく叩いた。
「元気出せ。しのぶよりいい女は腐るほどいるって」
 その手にはブラックの缶コーヒーが握られている。どうやら京のすぐ後に自動販売機コーナーに立ち寄ったようだ。城戸の発言を受けて、小雪も気付かれない程度に視線を京に向けた。京は死んだ魚のような目を小雪のデスクに向け続けている。
「いいんですもう……。彼女は俺の手の届かないところに行ってしまった、それだけのことですから」
「一時的なことかもしれないだろ。そんなに深刻になるなよ」
城戸がプルタブを開ける軽快な音が、やけにはっきり耳に届いた。それがスイッチとなり、京の瞼の際でかろうじて留まっていた涙があふれ出た。
「城戸さんっ、そういう問題じゃないんですよ! 『しのぶ』はねぇ! 高級緑茶を謳いながらワンコインのところが最大の魅力だったんです! それが……それがどうしてあんなことに……」
勢いよく身を起こしたかと思えば、またへにょへにょと力なく椅子にもたれかかる京。城戸も流石に相手をするのが面倒になり、苦笑いをこぼしつつ自分のデスクに消える。小雪の顔は呆れかえった表情のまま固まっていた。
 高級緑茶しのぶ──セイバーズの自動販売機コーナーで常に税込100円で販売されている、価格の割に味が良いと(一部に)評判の商品だ。京は入社当初からこの〝しのぶ"を愛飲している。雨の日も風の日も、苦しい時も悲しい時も、〝しのぶ"がいたから乗り越えられたのだと自負している。タバコとは、増税という京一人ではどうしようもない理由により袂を分かった。携帯食品とは元々そりが合わない。たいして美味くもない上、食べると切なくなるところが倦厭の理由だった。そんな中、〝しのぶ"だけは変わらない笑顔(価格)で傍(自販機コーナー)に居てくれたのである。二人の信頼関係は永遠に続くものだと、京だけは信じて疑わなかった。
「それが俺に何のことわりもなく120円に値上がりとはね……。信じる者は馬鹿を見るな」
「まだぐちぐち言ってる。そんなに好きなら20円くらい払えばいいのに」
 見るに見かねて、小雪がお茶を淹れた。今日はみちるの公休日だ、こういうときこそ〝しのぶ"の良さとありがたみが身にしみるというのに。
「だからね、小雪ちゃん。俺としのぶの関係はそういう単純なもんじゃなくて」
言いながら小雪が淹れたお茶に口をつける。濃い。尋常じゃなく。
 京は湯のみをゴミ屋敷デスクの片隅に移動させると、それ以降は会心したように黙々とデスクワークに勤しんだ。嗚呼、しのぶ。胸中で情感たっぷりに嘆きながら、小雪が淹れた劇的に濃い茶をちびちびとすすった。
 その後、本部に出向いていた金熊と荒木、遅い昼食を摂っていたシンも戻ってくると、みちるを除く保安課全員がデスクワークに没頭するという、めずらしい光景が生まれた。大抵は荒木組か浦島組のどちらか、あるいは両方が出動していることが多い。金熊も名ばかり課長ではないから、午後のこの時間に席に着いていることは珍しかった。
 誰かのあくびが響く。平和の象徴だった。『しのぶ』の裏切りに悲嘆にくれている男を除けば、保安課内はのんびりとしたムードに包まれていた。そういうときを見計らって、面倒な事件はやってくる。
 電話が鳴った。ワンコールが長いから内線だ、みちるがいないから荒木が面倒そうに受話器を取った。
「はい保安……」
カの字は言えずじまいで終わる。荒木は眉ひとつ動かさず、黙って受話器を耳に当てていた。横で城戸がちらちらと視線を送る。
「は? 一応受付でそういうのは止めてもらわんと、こっちとしても」
「保安課! 保安課ってのはここですか? あ~~早くっ、早くパトカーを出してくださいよ、何をのんびりしてるんです!」
 またしても荒木は言葉を飲み込まざるを得なかった。課の入り口、開け放したドアの前で小柄な中年男性が喚き散らしている。半狂乱、と言った方が正しいかもしれない。盆踊りでもしているように両手を頭の上でがちゃがちゃと振っていた。
 入り口に一番近いシンが対応しようとするのを制して、荒木がデスクの島を周って進み出た。
「えーと、先ほど受付に来られた方ですね。一応ここは関係者以外立ち入り禁止でして、応接室にご案内しますんで……」
「そんな悠長なこと! 事態は一刻を争うんですよっ。総員出動してください、パトカー出して!」
悉く話を遮られ、荒木の額に青筋が浮かぶ。対する中年男性は、荒木の肩くらいまでしかない身長にも関わらず、その激しい混乱と鬼気迫るもの言いで場を支配していた。とは言え、傍目には小人が愉快なダンスを踊っているようにしか見えない。
「ですから。事情も何も分からん状態では我々も動きようがありません。まず何があったかをお話ください」
 小柄な男性は、すっかりずり下がった眼鏡をかけ直しながら獣のように低く唸った。
「娘が……娘が誘拐されたんですっ」
なるほど、この凄まじいうろたえっぷりに相応しい単語が飛び出した。荒木は「わかりました」と言うかわりに何度か深刻そうに頷いてその場を取り繕った。対応はこのまま荒木が続行するらしい。
「犯行現場を目撃したんですか。それとも犯人から何か要求が?」
「違いますっ、亜里沙とはさっきまで一緒に観覧車に乗っていたんです。それを降りて、私がアイスを買いに並んでいる間に居なくなってしまって……」
「観覧車、と言いますと」
「フェアリーランドのじゃないですかー? うちの管轄内で観覧車っていったら、あそこくらいしかないですよ」
 シンが椅子に背を預けて、半分だけ振り返りながら口を挟む。
「そうです! フェアリーランドです! 亜里沙はずっと前から楽しみにしていて、あああ、なんでどうしてこんなことに!」
 荒木がまた何度か頷いた。伊佐保フェアリーランドは、都心にほど近い港湾区に展開している遊園地だ。観覧車から見える港の風景は、子どもたちだけに限らず老若男女に人気を博している。荒木も休暇を利用して家族で何度か訪れたことがあった。

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