SAVE: 05 春の芽吹きにご用


「あ、ちなみにそれ」
立ち去ったかと思った京が、また顔だけ入口からのぞかせた。
「小雪のおごりだから」
それだけ言い残して、冷えた廊下を小走りに進む。エレベーターの前で、小雪が待っていた。
「別に言わなくていいのに……」
「重要だろ。でないとあいつ、すぐ気持ち悪ぃとか言うから」
既に言われた後なのだから遅いのではないかと思ったが、当人が気に留めていないようなので小雪も特に指摘しなかった。指摘と言えば、何がそんなに嬉しいのかスキップくずれの浮かれ足でエレベーターに乗り込むのをまずやめてほしい。カンパニーから駅までの道すがら、京は大抵このテンションだ。相棒が少なからずへこんでいようと、誰にどんなふうに気持ち悪がられようと関係がないらしい。
「ねえ。京は、もし好きな人がスタンダードだったらどうする? 身を引く?」
京はすぐに意外そうな顔をした。
「いや、その『もしも』意味ないっしょ。君はスプラウトなわけだし」
「だ~か~ら~」
「あ、いい。わかった。『もしも私がスタンダードだったらどうするの?』って意味ね。どうかなー俺なら……」
 小雪は自分自身の質問をここぞとばかりに後悔していた。それと同時に、なぜこの男はどこまでもどこまでも果てしなく阿呆なんだろうと、純粋な疑問を抱く。
「まーしょうがないから、駆け落ちかな」
「あっそ」
「……なにその、聞いといて実は興味ありませんでしたみたいな」
 小雪は胸中で京の洞察力をほめたたえた。その通りである。相槌ひとつで本音を汲み取ることができるなら、質問の意図も汲み取ってほしいところだ。半眼で早歩きする小雪のななめ後ろで、京は嘆息ついでに微笑した。
「そんなの関係なくなる時代が来るよ。スタンダードとかスプラウトとか。そのために俺たちの仕事ってあるんだろ? 少なくとも俺は、そう思ってセイバーズやってる」
 小雪は思わず立ち止まって振り向いた。視線の先では満面の笑みを浮かべる京がいる。小雪の質問の意図は、どの段階でか完璧に把握されていたらしい。そしてその答えは、これ以上ないくらいに小雪の望むものだった。
「シンくんはそういう風に、思わないのかな」
「さあねー。あいつもひねくれてるから。理想と現実はまた違うしな」
京は理想のひとつを語ったに過ぎない。目標に据えるには現実離れしすぎている、それでも完全に否定してしまえるほど冷徹にはなれない。
 立ち止まったまま見上げた空から、白い埃のようなものがぱらぱらと落ちてきた。
「げ。降ってきた。急ごう」
これに関してはロマンよりリアル先行だ、二人そろって眉をしかめる。小雪が素直に頷くのをいいことに肩に手をまわしてみたが、無表情のまま思いきりつねられた。やはり都市部に降る雪は雰囲気づくりに全く貢献してくれない。京は赤くなった手の甲をさすりながら、小雪のペースに合わせて小走りに駆けた。


 今回セイブしたスプラウトの、ブレイクの程度は末期だった。それが確かな書類になって証明されるまでに一週間を要した。アイの検査の所要時間は平均して二、三日だ。I-システム課から青色の検査証明書を廻してきた男、京の同期である豆塚に対してシンは珍しく「遅い」などとぶっきらぼうに文句をつけたりした。ちなみにシンにとっては一応先輩に当たる。保安課の電話で神楽に連絡をとり、彼女の空き時間に合わせて勤務する病院に出向いた。結果報告をするためだ。
「お待たせしました。応接室をあけてもらったから、そこで」
 シンが待合室で患者と一緒になって座っていると、見覚えのある濃紺のカーディガンを羽織った神楽が現れた。頭にはナースキャップが乗っている。傍から見ればシンは製薬会社の営業か何かに見えるのかもしれない、往来する医者も看護師も、患者も二人を気に留めることはない。
 応接室の扉を閉めると、待合室とは打って変わって静寂な空気が流れた。
「今回セイブしたスプラウトについて、手短に報告します。もう安全ですという意味合いなので」
シンは世間話もせず、単刀直入に本題に入った。件のスプラウトのブレイク状態が末期だったこと、自我は無く神楽を強襲したのは偶然であったこと、アイを極限まで削って再生を待つリバイバル治療ではなく、完全な別個体となる移植治療になること、などを丁寧に且つ事務的に説明した。神楽はそれを真剣に聞く。
「…・・・以上です。神楽さんには直接関係ないことだけど、今後同じような目に合うことはないってことを保障する内容ではあるから。何か質問はある?」
「いいえ、ないわ。丁寧な報告だった」
シンは微笑して、机上の書類を整え始めた。
「そうだ、ひとつ。シンくんには直接関係ないかもしれないけど」
席を立とうと腰を浮かせた瞬間、見計らったかのように神楽が切りだした。
「私やっぱり、あなたのこと好きよ。嘘つきでも、スプラウトでも」
 シンは半分腰を浮かせたままの態勢で、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした。その素直な反応が嬉しいらしく、神楽はご機嫌に踵を返す。
「ちょ、神楽さんっ」
「電話するわ」
振り向きざまに右手の親指と小指を立てて振る。そのまま神楽は、シンを残してさっさと応接室を後にした。勢いよく立ちあがったシンは、気が抜けたように再び座り直す。
 誰もいない応接室で、思わず笑いをふきだした。


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