SAVE: 05 春の芽吹きにご用


「シンくん!」
 男のジャケットの襟をつかんだ。体格差はあるが、おそらくこのまま投げることはできる。渾身の力で男の襟元を自分に引き寄せた。その至近距離で、顔面めがけて包丁を突き出される。流石にシンも一旦距離を置いた。下まぶたのすぐ下に赤い直線が走る。
(こいつ……!)
「わああぁぁ! あああああ!」
どちらが襲われているのか分からない、男は叫びながら退いたシンを追って更に包丁を突き出した。これも顔面狙い、いや、アイを狙っての一撃だ。その突きをかわしたおかげで態勢を崩す。ニ撃目は間髪入れず、真上から振り下ろされた。
「しつっこいんだよ!」
アイさえ傷つけなければ、この男のでたらめな包丁さばきで致命傷を負うことはない。そう踏んだからこそ、シンは顔だけをのけ反らせて敢えて胸部付近を切りつけられてやった。肉を切らせて、といったつもりだったが肉どころか切れたのはシャツだけだ。痛みがないからそのまま男の腕をねじりながら背負い投げを決めた。男は神楽の見守るエントランスの扉に勢いよく叩きつけられ、その衝撃と音は閑静な住宅街に異質なものとして轟いた。シンはここぞとばかりに腕ひじきを決め、合間を縫っては器用にモバイルの短縮ボタンを押す。三コール、苛立つには早い気もするがシンはこの時点でかける相手を誤ったような気がしていた。四コールと半、電話がつながる。
『シーーン……なんだよ、お前今日休みだろ……』
今の今まで惰眠をむさぼっていましたと言わんばかりの、だらけきった声が漏れる。その通り、休みのはずのシンがこうして仕事に精を出し、例の如く書類に埋もれて居眠り半分で残業している京が出勤扱いなのだから不公平だ。
「そのはずなんだけどさー! ちょっと、今、ブレイクセイブしてる真っ最中なんだよね! 刃物振り回しちゃって危ないからさー、社用車回せないかなー!」
シンの嫌味もなんのその、電話口の京は「それを早く言えよ」と短くぼやくと何やらばたばたと物音を立てて動き出す。カンパニーからここまでは飛ばせば十分足らずだ、その間ほとんど大人しくなったブレイクスプラウトを抑え込んでおくくらいわけはない。男の腕を絞めながら、シンはひとり安堵の表情を浮かべていた。ふと、うめき声しかあげなくなった切り裂き魔の「アイ」を覗き込む。
「まあ分かんないよねぇ、普通」
すぐに興味をなくして嘆息した。この男はスプラウトだ、経験と勘でそれはもうほとんど間違えることがなくなった。そしてブレイクしている。言動を見る限りそう判断して差し支えないだろう、違ったとしてもこの男の行動からしてセイバーズで処理すべき案件である。このブレイクしているか否かの確証を、シンは現時点で得ることができない。シンのみならず、セイバーズに所属するほとんどすべての社員はI-システム課の検査なしにブレイクの確証を得ることはできない。それができるのは、シンが知っている限りあの男だけだ。
「シンくん、大丈夫……?」
 ねじりパンのように絡まったシンとブレイクスプラウトに扉をふさがれていたため、神楽は半ばそれをこじあけるようにして外に出てきた。
「神楽さん、危ないからそのまま中に入ってなよ。応援呼んだから、すぐうちのが来ると思うし」
 神楽は忠告を流してしゃがみ込むと、シンの顔の傷を心配そうに撫でた。
「ごめんね……。こんな危険なことになるなんて……」
「言ったでしょ、挽回のチャンスだって。それにまあ、これが僕らの仕事だからね」
 定期的に挿入されるブレイクスプラウトのうめき声がなければ、それはそれで雰囲気のあるシーンになったのかもしれないが、見つめあったところでどうにもお粗末な光景だった。互いに苦笑する。しかしその穏やかな表情を保ったのは、シンの方だけだった。
 神楽は目を大きく見開いて、口元を手で覆った。その視線の先、シンの切られたシャツの下に4桁の数字が並ぶ。
「シン、くん……あなた」
神楽の脳裏に、シンの作り笑いが浮かぶ。今、神楽の中に渦巻く疑問と喪失感には記憶の中のシンが答えてくれる。その方が、円滑に進む世の中だと思うから、と。
 シンは神楽の視線に合わせて自分のアイナンバーをしげしげと眺めた。アイを管理するためのパスワード、スプラウトの命の番号。つまり、スプラウトであることの絶対的な証明である。それは時にこうして、何かの烙印のように重くなる。シンの口からごく自然にまた、苦笑が漏れた。
「残念。これから本気で口説こうと思ってたのに」
「……なんで? 関係ないじゃない、あなたがスプラウトであっても私は──」
「ごめん、訂正。口説こうと思ってたのは本当だけど本気にはならない。スタンダード相手にはね」
神楽にとっては聞きなれない単語だろうなと思った。「スプラウト」と「スタンダード」は違う。人類か人間かという議論はさておき、この違いは明確に認識しなければならない。だからスプラウトは──シンは、この言葉を選んで使う。たったの一言で必要なときに境界線が引ける、都合のいい言葉だった。都合はいいがそれなりに「こころ」が痛む。
「そんなふうに言わないで。理解ろうとする人間だっているって、言ったじゃない……」
 シンにしてみれば、ここで神楽を泣かせるのは不本意だった。しかしミスはミスだ。それも返上しがたいタイプの。神楽の涙から目をそむけた瞬間、シンは大泥棒大発見!とでも言うように懐中電灯であかあかと照らされた。
「何やってんだよ」
 気づけば見慣れたセイバーズの社用車が二台、前の道路に横付け停車している。二台目の運転席には小雪の姿。おそらく一台目はこのやっかみ男が運転してきたはずだ。京は懐中電灯でシンと神楽を交互に照らして歯茎をむき出しにした。
 シンは特大のため息を吐く。合流した小雪にブレイクスプラウトを引き渡して、座り込んだままの神楽の手をとった。
「調書を取りたいので車にいいですか」
神楽は小さく一度頷いた。とりわけ冷たいわけでもなく、同情するわけでもない平淡なシンの口調。それなのに自分を支えるその手は、変わらず優しいことに気付く。
 神楽はシンに促され、しっかりとした足取りでセイバーズの社用車に乗り込んだ。
 スプラウトセイバーズカンパニー藤和支社、通常なら夜十時を回った段階で三階、もともと宿直のあるオペレーション課以外は明かりが消える。本日はそれに加え、この五階、保安課に煌々と明かりがともっていた。ほとんど自身が関わった案件で、神楽からとる聴取の量も質もたかが知れている。セイブしたスプラウトの詳細な診断結果が出てから、神楽には改めて話を聞くことになるだろう。自宅のドアの前まで彼女を送り届けた後帰社し、シンは何をするでもなく自分の席に全体重を預けて天井を仰いでいた。
「さっさと帰れよ。電気代かかる」
京が入口から顔をのぞかせた。少しだけそちらに視線をずらす。普段人一倍夜中まで残業し、保安課の電気代を釣り上げている男にとやかく言われたくはない。
 声掛けだけしてさっさと帰宅するのかと思いきや、京は京で自分のデスク──つまりシンの隣──に腰を据える。
「めずらしくふられてたなー」
特に感慨なさげに言ってのける。
「たまにマジになりかけるとこーなるからねー」
ただただ面倒そうに半眼で返すシン。京が立ちあがると同時に、シンのデスクに「高級緑茶しのぶ」の缶を置いた。
「……なに。気持ち悪い」
「人の好意に対して気持ち悪いとはなんだ。終電までには帰れよ」
京は心外そうに肩を竦めたかと思うと、シンの小ぶりな頭を子供のように撫でて立ち去る。気ままだ。シンは、片眉を上げ小首を傾げながら、置かれた「しのぶ」のプルタブを軽快にあげた。

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