SAVE: 06 ールサイドの悪夢


 気がつくと楽しげな鳥の声が朝の訪れを告げていた。スプラウトセイバーズ藤和支社、保安課の閉じたブラインドの隙間から京をピンポイントで照射するように朝日が差し込む。この隙間は、金熊が刑事ドラマの真似事をして人差し指でこじ開け続けた結果のものだ。
 京は椅子の先端にかろうじて尻を乗せた状態で、ほとんどずり落ちるようにして座っていた。寝てはいない。証明しろというならそれができる。午前0時を過ぎて少ししてからカップラーメンを食べた。2時前にオペレーション課から内線が入って、荒木に取り次いでもいる。深夜にセイブに駆り出されたであろう荒木と城戸、そろそろ力いっぱい愚痴りながら帰社する頃合いかもしれない。4時に問題集の採点を始めた。「昇進試験のための乙女さんスペシャル問題集」と題されたその分厚い束を、京はこの一週間寝る間を惜しんで解いていた。しかし広げたままの解答用紙にはほとんど丸印がない。
 壁にかかっている時計に視線を移す。6時半。入口ドアが不躾に開かれた。
「あーら、ほんとにここで寝泊まりしてたのね。生きてる?」
 我が物顔で入ってきて、小雪の席にどかりと腰を下ろす辰宮乙女。京はそちらには目もくれず生返事だけすると、身体を揺らしながら椅子に腰かけなおした。
「で、どうなの。手ごたえは」
 これにも京は答えず、腕の下に引いていた解答用紙を乙女の方へスライドさせた。叱咤か激励かが返ってくると思いきや、乙女は口元も押さえず、思い切りよく笑いを噴き出しただけだ。これには京も無言のまま睨みつける。
「つくづく努力って積み重ねが大事なんだと教えてくれる、素晴らしい答案よねぇ……。まあ足掻くだけ足掻いたんだからいいんじゃないの? 試験は筆記だけじゃないわけだし」
「……それで、お前は俺をけなすためにわざわざ朝っぱらから出社したのかよ」
「失礼ね。その問題集はいったい誰が作ってやったと思ってんの」
「……辰宮法務課主任殿です」
「よろしい。それでは当日でも間に合う面接対策集を差し上げましょう。あんたでも使える回答例も作っといたから。目通しとけば違うでしょ」
 乙女はクリップ止めの数枚の用紙を差し出した。「乙女さんスペシャル面接対策集」と題されて、律儀に表紙がつけられている。未だにぼんやりとした思考回路のまま京がそれを受け取ると、乙女はさっさと席を立った。
「まぁせいぜい頑張りなさいよ。一階級上がれば、例の事件に対してももう少し動きやすくなるでしょ」
まるで何でもない事のように言い捨てて退室しようとする乙女を、京は座ったまま肩越しに呼び止めた。呼び止めた方が横着なのだから、乙女もそれに合わせて肩越しに振り向くだけだ。
「何よ」
「いや。……助かる、さんきゅー」
面接対策集を掲げて軽く振る。乙女は半眼で嘆息するだけだ。
「『いつもありがとうございます、乙女さん』くらい言えっての。受かったら寿司の一つでもおごりなさいよ、もちろん回ってないやつを」
 京はそれ以上相手にせず、再び前方に向き直ると「了承」の意と「さようなら」の意を示すためにもう一度問題集を振った。乙女が遠ざかっていくヒールの軽快な音を聞きながら、京は表紙をめくった。A4用紙にぎっしり埋め込まれた質問と回答を見て一瞬頭がくらくらしたが、随所にピンク色のマーカーが引かれてあることに気付き、注視する。更に矢印が引っ張ってあって、乙女の手書きで「絶対聞かれる!」と書き込まれてあった。
「思っちゃいるけどな」
──いつもありがとうございます、乙女さん──口に出さない代わりに、試験の結果がどうであれ寿司くらい奢るかという気になった。
 乙女は短大卒業後にスプラウトセイバーズに入社し、いくつかの支社を渡り歩いた後、この藤和支社保安課に配属されたたたき上げのエリートだ。法務課に転籍するまでの二年間、京は彼女とバディを組んでいる。その頃から今の今まで、ほとんど気の置けない男同士のようなつき合いだ。そのくせ乙女は細かいところによく気が付く。だから今回、京がぎりぎりになって昇進試験を受けたいと申し出たときも、特に理由も聞かず協力してくれた。理由については保安課長である金熊も同じだ。おそらく分かっているから聞いてこないのだろう。
 主任になれば、乙女を介さなくてもマル秘資料の閲覧が可能になる。そして必要に応じて単独行動が許される。京が今になって昇進試験に臨むのは、この二つの権利を手に入れるためだ。
 京は眠気眼をこすって、机上に立ててある黒い、人一倍分厚いファイルを引っ張り出した。いつもそうするようにただページを繰る。内容はほとんど丸暗記していた。ここにファイリングされた事件の詳細なら、対策集などなくても完璧に受け答えができる。但し、解決への進捗状況を問われたら──その試験は落第かもしれない。


 本日の京の予定は、とにかく多忙を極めていた。まず保安課の朝礼をいつもより早めに繰り上げてもらい、シンと小雪を連れて管轄である藤和高校に足を運ぶ。毎年二年生を対象にして行う、スプラウトに関する実技講習会のためだ。それが京の昇進試験とバッティングしたからには、当然試験を優先させる。つまり、今回の講習会はシンと小雪の二人に任せる運びとなっていた。それに対して何の躊躇いもなく不服を露わにするシン。彼を納得させるために、藤和高校への挨拶だけは同行することにした。
「そういうわけで今回はこの、桃山と白姫で対応しますので」
 静まり返った校長室で、京は手早く二人を紹介した。一限目が始まったばかりの校内は比較的静かで、遠くで体育か何かの号令が聞こえるだけだ。校長は京が参加しないことに特に何の感慨も示すことはなく、講習の概要と説明を聞いて適度に頷いていた。
 しかしここにも、シンとは別に不服そうな男がいる。京は校長の横に立つ、全身ジャージの男に一瞬だけ視線をくれた。その一瞬を見逃さず、彼、鬼ヶ島剛教諭もしっかりと視線を合わせてきた。京は苦笑いと愛想笑いの中間のように、締りなく口元をゆるめてごまかした。
「浦島、勝山ホールでは世話になったなぁ……」
 ごまかせて、いなかった。
「鬼パ……鬼ヶ島先生もあの場所にいらっしゃるとは思いませんでした。いやー、つくづく縁がありますね。今年は講習に参加できなくてほんと、残念です」
 鬼ヶ島──通称「鬼パン」が言うのは、赤井グループのスプラウト遺体売買が摘発された現場で、京が面白半分に彼を不審者として警察に売りとばした件だ。実際、夜の路上で竹刀を抱えて女子高生を追い回していたのだから、不審者以外の何者でもなかったのだが。ちなみにそれは時代を超越した鬼パンの指導スタイルだ。何も知らない校長がひとり、穏やかさ満点の表情で笑う。
「いやぁ、毎年のことですが、鬼ヶ島先生の教え子たちがこうして今の生徒たちに指導をしてくれるというのは素晴らしいことだと思いますよ。先生の仁徳でしょうなぁ」
(カンパニーの規定だよ……)
 揃って胸中で突っ込みを入れたのは京とシンだが、無論それが校長に伝わることはない。
「いやいやいや、浦島も桃山も在学当時はほんっとにろくでもない連中でしてっ。何度私が頭を下げてまわったことやら」
「その二人が今やこうしてスプラウトセイバーズという立派な職につき、鬼ヶ島先生に恩返しに来てくれているのですから」
 いやいやいや、と言いながら鬼パンは終始愛想笑いだ。確かに頭を下げてまわったことは何度となくある。一番思い出深いのは、廊下の端から京に向けて投げられた竹刀を、よけた拍子にガラスを数枚突き破ったときだ。
 何はともあれ、今回に限ってはこのおっさんの管理下で講習を担当せずに済む。京が安堵のため息を漏らすのとは対照的に、対応を任されるシンは朝から愛想笑いのひとつも作らない。校長室での挨拶を終えても、シンは子どものように頑なに無表情を貫いていた。
「とにかく、俺はもう本社に行くから。くれぐれも後よろしくな」
「……まぁ仕事だからね」
「お互いにな」
京は苦笑してシンの肩をたたき、小雪にウインクを飛ばして逃げるように藤和高校を後にした。

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